第62番 天養山 観音院 宝寿寺

宝寿寺
本尊十一面観世音菩薩
おん まか きゃろにきゃ そわか
御詠歌さみだれのあとに出でたる玉の井は 白壺なるや一の宮かは
はじめての方へ|この記事に出てくる言葉
- 本尊
- そのお寺がいちばん大切におまつりする、中心の仏さま。
- 御真言
- 本尊に呼びかける、サンスクリットに由来する短い聖なる言葉。
- 御詠歌
- その札所をたたえ、巡る心をうたった和歌。
- 縁起
- そのお寺の始まりや、いわれを伝える言い伝え。
- 札所
- お参りするお寺のこと。四国遍路では四国八十八ヶ所をめぐる。
- 大師堂
- 弘法大師(お大師さま)をおまつりするお堂。本堂とあわせてお参りする。
- 奥の院
- 札所の近くにある、もう一つの聖地。旧境内や、大師が修行したと伝わる岩や滝など。
- 結願
- 八十八ヶ所すべてを巡り終えること。「満願」ともいう。
- 四つの道場
- 四国の四県を、心の旅の四段階になぞらえた呼び名。阿波=発心、土佐=修行、伊予=菩提、讃岐=涅槃。
八十八ヶ所のなかの位置
八十八ヶ所の道のりで、第62番は 愛媛県(伊予・菩提の道場)にあります。阿波23・土佐16・伊予26・讃岐23ヶ寺のうち、全体では62番目です。

縁起と歴史
宝寿寺は、かつて伊予三島水軍の菩提寺として、また大山祇神社の別当寺として栄えた。縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(。~744)が勅命をうけて、その法楽所となる別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称した。寺は現在地ではなく、中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)である。大師は寺に久しく留まり、聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。また、この頃国司だった越智氏の夫人が難産で苦しんでいたため、大師に祈念を頼んだ。大師が本尊に祈願した霊水・玉ノ井(現存しない)で加持したところ、夫人は玉のような男子を無事に出産した。このことから、安産の観音様としても信仰されたという。その後、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。以後は大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅した。寛永13年(1636年)、宥伝上人によって当寺だけが新屋敷の現在地付近に移されて再興され、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなった。その後の延宝7年(1679年)には、藩主の命により洪水を避けるため、今度は神社が当寺の横へ移転された。さらに明治初頭の廃仏毀釈によって、当寺は神社と分離され廃寺となった。しかし大石龍遍上人によって明治10年(1877年)に神社の南隣へ移して再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地へ移転した。
- 天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
- 大同年間(806~10)、弘法大師は寺に久しく留まり、聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。
- 天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅した。寛永13年(1636年)、宥伝上人によって当寺だけが新屋敷の現在地付近に移されて再興され、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなった。その後の延宝7年(1679年)には、藩主の命により洪水を避けるため、今度は神社が当寺の横へ移転された。
- 明治初頭の廃仏毀釈によって、当寺は神社と分離され廃寺となった。しかし大石龍遍上人によって明治10年(1877年)に神社の南隣へ移して再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地へ移転した。
見どころ・伽藍
- 再興の祖寛永13年(1636)、四国遍路の行者・宥伝上人によって現在地に移転、再興された。
- 弘法大師が彫った十一面観世音菩薩像を本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。
- 国司だった越智氏の夫人が難産で苦しんだ際、大師に祈念を頼んだ。大師が霊水・玉ノ井で加持したところ、無事に出産したと伝わる。
- 厄除け大師金剛杵を逆手に持つ大師像で、厄除けの信仰を集める。
- 十一面観音立像移転の際に地元の人々が奉納した脇尊。
- 厄除け大師:木造彫眼彩色。像高36.0cm。木造素地の厨子(宮殿)に安置されており、右手に金剛杵を逆手にとり、左手は数珠をとって膝上におく通例の像容である。
- 十一面観音立像:宝寿寺が現在地に移転してきた当時、地元の人々によって奉納された。以来、本尊の十一面観音と同じく安産守護に御利益があると信仰を集めている。
- 再興の祖:寛永13年(1636)、四国遍路の行者・宥伝上人によって現在地に移転、再興された。
- 中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
- 明治初頭の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって明治10年(1877年)に神社の南隣へ移して再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地へ移転した。
- 宝寿寺周辺の霊跡・奥の院は寺伝に記される。詳細は公式を参照。
信仰と物語
- 本尊は十一面観世音菩薩。五月雨が上がったあとに湧き出た玉のように清らかな井泉。白く澄んだその水は、一の宮(宝寿寺)にふさわしいことよ。
- 真言は「おん まか きゃろにきゃ そわか」。
- 宝号は南無大師遍照金剛。
- 大和の僧・道慈律師(。~744)が勅命をうけ、法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。
- このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称した。寺は現在地ではなく、中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)。
- この頃、国司だった越智氏の夫人が難産で苦しんでいたため、大師に祈念を頼んだ。大師が本尊に祈願した霊水・玉ノ井(現存しない)で加持したところ、夫人は玉のような男子を無事に出産した。このことから、安産の観音様としても信仰されたという。
- 御詠歌「さみだれのあとに出でたる玉の井は 白壺なるや一の宮かは」
- 御詠歌は四国霊場会の札所案内・納経帳などで広く流通し、巡礼の道中で唱えられる。
- 開基は聖武天皇と伝わる。
- 縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
- このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称した。寺は現在地ではなく、中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)。
- 弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)である。大師は寺に久しく留まり、聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。
- 以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅した。寛永13年(1636年)、宥伝上人によって当寺だけが新屋敷の現在地付近に移されて再興され、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなった。その後の延宝7年(1679年)には、藩主の命により洪水を避けるため、今度は神社が当寺の横へ移転された。
参拝の手引き
- 年中行事は霊場会公式サイトを参照。
- 駐車場:大型車(2台)
- 電話:0898-35-5262
- 納経時間・拝観料は季節・行事で変わる場合がある。参拝前に電話または公式で確認を推奨。
- 前の第61番香園寺から約1.4km。次の第63番吉祥寺へ約1.3km。
- OUV所在地:西条市小松町
- 〒799-1101 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
写真

画像の著作権表示(出典:Wikimedia Commons)
- 境内© Reggaeman / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
出典
本文の確認に用いた公開資料と、札所別研究記録に記載された書誌情報です。公開本文のURLを確認できた資料はリンクし、書誌情報のみ確認できたものはその旨を明記しています。