もとは世俗の「契約違反」
- 日本語訳
- 売買して後悔し撤回すること、約定(samaya)の違反、男女の結合をめぐる争い、窃盗、相続の分割、賭博。これらが訴訟の項目である。
- 原文
krayavikrayānuśayaḥ samayātikramas tathā / strīpuṃsayogaḥ steyaṃ ca dāyabhāgo 'kṣadevanam //
- 出典
- 『ブリハスパティ法典(Bṛhaspatismṛti)』訴訟篇

越三摩耶が問うのは、灌頂や三摩耶戒で結んだ誓いです。受けた覚えのない方が、日常の言動でこれを犯すことはありません。
「越」は、踏み越えること。「三摩耶」は、灌頂で受け取る仏との誓いです。
「越」は踏み越えること、「三摩耶」は灌頂で受け取る仏との誓いです。ただし、約束を忘れた、予定に遅れたという日常語ではありません。灌頂と受戒を通して引き受けた教え、菩提心(悟りを求め、人を救おうとする心)、伝授の秩序に背くことを指します。
だから、記事を読んで「自分も知らないうちに越三摩耶を犯したのでは」と探し回る必要はありません。問われるのは、誰から何を授かり、どの誓いを結んだかです。受けた方が不安を覚えたときも、一つの言葉だけで自己判定せず、授者や同じ法流の阿闍梨へ確かめます。
krayavikrayānuśayaḥ samayātikramas tathā / strīpuṃsayogaḥ steyaṃ ca dāyabhāgo 'kṣadevanam //
samayavyatikramāt kṣipraṃ bhasmīkuryat kulāni tu //
越三摩耶は「越三昧耶」とも書きます。違犯の罪をとくに「越三摩耶罪」といいます。梵語では samayātikrama。samaya(誓約)を atikrama(踏み越える)という、そのままの組み合わせです。本記事では、真言宗の文脈に合わせて主に「三摩耶」と表記します。
ここに引く強い言葉は、受戒の場で覚悟を促すための儀礼上の警誡です。この記事を読んだこと自体に、罰はありません。
ここで引く二系統の灌頂次第(儀礼の手順書)には、仏の働きを重ねて清めた香水を、弟子が口にする場面があります。これを誓水と呼びます。
『大日経疏』は、この所作を世間の盟誓になぞらえます。聖衆の前で香水を口にし、大菩提の願から退かないと自ら誓う。飲み物に罰の力が宿るという話ではありません。身体を通して、誓いを自分のこととして引き受ける作法です。
別系統の梵語儀軌は、その水を、誓いを守れば甘露、越えれば身を焼く水と呼びます。受戒者へ覚悟を促す、儀礼上の強い警誡です。一般の読者が、この引用を読んだだけで罰を受けるわけでも、過去の小さな迷いを地獄へ直結させる話でもありません。
加持誓水一遍、令弟子飲誓水。
此即名爲誓水、亦順世諦猶如盟誓之法、令於一切衆聖前噬此香水自誓其心、要令不退大菩提願也。
idaṃ te nārakaṃ vāri samayātikramād dahet | samayarakṣaṇāt siddhiḥ piba vajrāmṛtodakam ||
灌頂の実際の次第は法流ごとの口伝によります。ここでの記述は、公刊された経軌に見える範囲にとどめています。
『大日経疏』は、三摩耶を四つの働きから説きます。ここでいう四つは、後に出る四つの戒とは別です。
三昧耶是平等義、是本誓義、是除障義、是驚覺義。
說三昧耶持明。三昧耶者、是平等義、是本誓義、是除障義、是警覺義。
如来は、すべての生きとし生けるものが、その身も言葉も心も、ことごとく仏とひとしいと見そなわされます。誰もがそのまま仏になる素質を具えている、という見方です。
如来は、すべての衆生に成仏の資質があると見て、「あらゆる手立てを尽くして、必ずみなを悟りに至らせよう」と大いなる誓いを立てられました。
本来そなわっている仏の心が、わずかな迷いに覆われて気づけずにいます。その覆いを取り除こうという誓いです。
迷いの眠りについている私たちを、まことの言葉で揺り起こし、目覚めさせる働きです。
三摩耶は、人だけに課された契約ではありません。仏が衆生を見捨てないという本誓が先にあり、行者がそれに応えます。越三摩耶の厳しさだけを切り離すと、この順序を失います。
『大日経疏』がまず戒めるのは、誓いから離れていく心の向きです。特定の一動作ではありません。
挙げられるのは四つです。人や教えに優劣の壁を立てる。救う相手を自分の都合で狭める。名誉や利益を先にして、衆生、つまり生きとし生けるものを益する目的を失う。怠りに沈み、自分を呼び覚まさない。いずれも、仏の平等と本誓から向きをそらす心です。ここに挙がるのは、疲れた一日の怠りではなく、向きそのものが逸れていく状態です。
ただし、疲れた日や心の揺れを一つ見つけて、直ちに重罪と決めるための自己診断表ではありません。意図や継続、受けた戒の内容を離れて判定はできません。気がかりがあるなら、恐れを膨らませる前に師へ相談します。
越三摩耶の三つのかたち
心の越
人や物事を分けへだてる見、平等の誓いにかぎりを設ける心、名利への随順、放逸懈怠。
平等の義に背く『大日経疏』巻九
作法の越
印・真言・曼荼羅の軌則を誤り、菩提心に住さずに修法する。諸仏菩薩を謗るに同じとされる。
本誓の義に背く『大日経疏』『蓮華胎蔵瑜伽』
秘密の越
灌頂を受けた者が、まだ資格のない人へ秘法を漏らす。師と弟子が結んだ誓いを破る。
師資の誓いに背く『現証三昧大教王経』
若菩薩於衆生諸法中作種種不平等見、則越三昧耶法。若於此平等誓中作種種限量之心、亦越三昧耶法。諸有所作隨順世間名利、不爲大事因縁、亦越三昧耶法。放逸懈怠不能警悟其心、亦越三昧耶法。
真言門修菩薩行諸菩薩已發菩提心、應當住如來地、畫漫荼羅。若異此者、同謗諸佛菩薩、越三昧耶、決定墮於惡趣。
若有不見大曼拏羅者、汝不應爲說此三昧法。若爲說者違越三昧。
この節の三つの引用は、原典が「心の向き」「作法」「伝授の境界」という異なる場面で越三摩耶を語ることを示します。新しい分類を作るためのものではありません。四義・四つの心・四重禁を、一組の一覧として混ぜないでください。
三摩耶戒の四重禁は、先ほどの四義とは別に、行者が手放してはならない四つの根本を示します。
『大日経』は、これを自分の命のように護れと説きます。『大日経疏』が「真言乗の命根」とまで呼ぶのは、正法・菩提心・伝法・利他が、修行の技法より先にあるからです。続く「死屍」という強い譬えは、受戒者に根本の重さを示す警誡です。一般の読者や、一時的に怠った人を死者と断じる言葉として用いてはなりません。
佛子汝從今、不惜身命故、常不應捨法、捨離菩提心、慳悋一切法、不利衆生行。佛說三昧耶、汝善住戒者、如護自身命、護戒亦如是。
今此四夷戒是真言乘命根、亦是正法命根。若破壞者、於祕密藏中猶如死尸、雖具修種種功德行、不久敗壞也。
経文を聞くこと、寺院が示す勤行を唱えること、灌頂後に印・真言・観法を修することは、同じ行為ではありません。
諸儀軌が厳しく戒めるのは、伝授を受けないまま、特定の印・真言・観法・壇法を自己流で組み立てることです。盗法・越法という語の範囲は、文献や時代で一定しません。授ける側と受ける側、何をどこまで行ったかを離れて、一語で決めつけることはできません。
『大日経疏』は、行法を師から受けるべき理由を、伝えられる法の「拠りどころ」が失われるからだと説きます。教え、行者、伝承を損なわずに受け渡すための順序です。秘密にして人を遠ざけるためではありません。現代の個人読誦や勤行については、歴史上の一文献を宗派全体の規則に広げず、所属寺院が示す次第に従ってください。
設爾修行、自招殃咎、成盜法罪、終無功効。
違越三世諸佛祕密法則、得越法罪。越法罪者、此中所謂犯三昧耶、四波羅夷中第三戒也。
佛說此經要從師受、不得輒爾修行。若無明師、則所傳無寄故也。
真言陀羅尼を授からずして誦ふれば、越三昧耶とて仏の制戒に違がふ罪あり。光明真言は、授からざる人も皆 誦ふる事は、是 観世音菩薩 我人衆生に代りて一切如来より御授かり置給りし真言なるが故なり。余の真言陀羅尼は、授からざれば決して誦ふべからず。
仏は本誓を違えない。だから人も、背いた場所から誓いを思い出し、戻ることができます。
密教の諸経軌は、違犯を戒めるだけでなく、懺悔と回復の作法も説きます。越三摩耶は、回復不能という宣告ではありません。
ある儀軌は、「三摩耶を違え越えてしまった」と一人称で告白する懺悔の偈を伝えます。別の儀軌は、誤って戒を破った場合にも過ちを除き、円満へ戻る作法を説きます。厳しい警誡と回復は、原典の中でも対になっています。
戒や灌頂を受けた方が気がかりを抱いたら、一人で罪名を決めないでください。まず授けた阿闍梨へ。連絡できなければ、所属寺院、同じ法流の阿闍梨、宗派の教学・寺務の窓口へ相談します。必要な懺悔や再受戒は、受けた法と事情に応じて導かれます。
百字明などの懺悔法も、記事から印・真言・観法を組み立てて行うものではありません。戻る先は、誓いを結んだ関係の中です。恐怖に閉じこもったまま、一人で終わらせないでください。夜間などすぐに連絡がつかないときは、無理に一人で結論を出さず、日をあらためてお尋ねください。
邪見覆心故、違越三昧耶。今對大聖尊、盡心而懺悔、如先佛所懺、我今亦如是。願乘加持力、衆生悉清淨。
修行者設有越法誤失三業破三摩耶戒、由結此印、誦真言加持故、能除諸過、皆得圓滿。
瑜伽者破三昧耶、或阿闍梨非法失師位、由建立此輪壇、則復本阿闍梨位、修一切三摩地真言速得成就。
仏典の「頭が七つに裂ける」という句は、文献ごとに対象が違います。越三摩耶の果報一覧ではありません。
『中阿含経』では、清浄でない比丘がいる僧団で如来が戒の解脱を説く場面に現れます。『文殊師利根本儀軌経』では、忿怒尊の命に従わない障難者への調伏句です。由来を比べる資料にはなりますが、いずれも越三摩耶を犯した一般人への予告としては読めません。
警句を集めるほど教えが厳密になるわけではありません。本編で確かめるべきなのは、何の誓いから離れ、誰を損ない、どう戻るかです。
彼人則便頭破七分。
彼障難者若不順其命、頭破七分如阿梨樹枝。
saptadhāsya sphuṭen mūrdhā arjakasyeva mañjarī |
若有越三摩耶者、當用受三摩耶忿怒印而作調伏。
『三昧耶戒序』は空海撰と伝えられ、真言宗の三摩耶戒理解に影響を与えました。ただし、現代の研究では真撰をめぐる議論があります。確実な空海の著作と同じ扱いにはしません。
『三昧耶戒序』は、三摩耶仏戒を「大日如来の法身がみずから説いた戒」と位置づけます。そして後代の三摩耶戒理解では、その戒の体を、衆生がもとより仏と等しく具えている浄菩提心と読んできました。三摩耶戒とは、外から課す掟ではなく、「あなたはもとより仏と等しい」という本来平等を受け取り、忘れない誓いなのです。
だからこそ、これは即身成仏に直結します。本来そなわる平等を、観法と真言と三密(身・口・意の三つのはたらき)の行によって、今このからだに顕す。それが即身成仏であり、三摩耶戒はその入口を守る戒にあたります。
今所授三昧耶佛戒者、則是大毘盧遮那自性法身之所説眞言曼荼羅教之戒也。
大毘盧遮那四種法身四種曼荼羅、此是一切衆生本來平等共有。
「越三昧耶」の語は、空海真撰の『秘密曼荼羅十住心論』巻八にも、『成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌』の一節として引かれています。ただし空海自身がこの語を主題として論じた箇所はなく、教学上の本拠は『大日経』と『大日経疏』にあります。
三摩耶という語は、もう一つ別の場面でもよく耳にします。仏を象徴する持物、三摩耶形です。
観音の蓮華、不動の剣、金剛薩埵の五鈷杵。これらは三摩耶形と呼ばれます。ある儀軌は「三摩耶とは、本誓のかたちである」と言い切ります。蓮華や剣は、ただの装飾ではありません。その仏の誓いと働きが、目に見えるかたちに結晶したものなのです。
密教では、一つの仏を、種子(梵字)、三摩耶形(持物)、尊形(お姿)の三つの段で表します。『大日経』は、諸尊に字・印・形像の三種の身がある、と説きます。空海も『即身成仏義』で、この「印」すなわち刀剣や蓮華などの持物を三昧耶曼荼羅と呼びました。誓い(抽象)が、しるし(持物)になり、み仏のお姿(具象)になる。三摩耶という一語が、誓いからかたちへと広がっていることがわかります。
なお、三摩耶(誓い・samaya)と三昧(心を一つに定めること・samādhi)は別の言葉です。
祕密主、諸尊有三種身、所謂字印形像。
印謂種種幖幟、卽三昧耶曼荼羅。
本記事は、高野山真言宗 平等寺 住職 谷口真梁(たにぐち しんりょう)が、真言密教の典籍と研究にもとづいて記しました。漢訳原文は大正新脩大蔵経(大正蔵)の本文から引用し、出典は冊・経番号(Tnnnn)・頁段を示します。梵語は GRETIL・MUKTABODHA 所収本によります。