正面の三面
慈悲相(菩薩の顔)
善き行いの人を見て慈しみの心をおこし、楽しみを与えます。
「観音さま」は、正しくは観音菩薩(観自在菩薩)といいます。菩薩とは、自分のさとりを求めながら、同時に苦しむ人々を救おうとする存在のことです。観音菩薩は、救う相手やはたらきに応じて、さまざまな姿に身を変えてあらわれるとされ、その変えた姿を「変化観音」と呼びます。
十一面観音は、その変化観音の一つです。頭上に十一の面をいただき、あらゆる方向を見渡して、どの方角の苦しみにも応じて救うとされます。
日本では、変化観音のなかでもっとも早く信仰されはじめた仏として、奈良時代から数多くのお像がつくられました。病気が治ること、災難を避けることなど、いま生きているこの世での願いに強く結びつけられてきた観音さまです。
正式には十一面観世音菩薩。梵語(古代インドの言葉)ではエーカダシャムカ・アヴァローキテーシュヴァラ(Ekādaśamukha Avalokiteśvara)といい、「十一の面をもつ観自在」という意味です。
十一面観音は、お像のかたちより先に、まず「真言」として生まれました。
真言とは、仏の真実の言葉とされ、意味に置き換えず、音のままにとなえる聖なる言葉のことです。そのなかでも、その仏の心そのものをあらわす中心の真言を「心真言」といいます。
十一面観音のもとになったお経は、長い年月のあいだに、何度も書き写され、何度も訳しなおされてきました。その古いものから新しいものまでを並べて見くらべると、はじめからあった部分と、後の時代に書き足された部分とが見分けられます。いちばん古い形には、じつは「十一面観音」という仏像も、その名の仏さまも、まだ出てきません。出てくるのは、観音さまがはるか昔に、ある如来から授かったという「十一面」という名の真言だけなのです。
「十一面」と呼ばれていたのは、この真言の名でした。日本でもっとも広く読まれてきた玄奘三蔵(『西遊記』の三蔵法師のモデルになった訳経僧)の訳『十一面神咒心経』でも、観音さまは自分の真言を、世尊(おしゃかさま)にこう紹介します。
世尊、我に神呪心あり、名づけて十一面という。大威力を具し、十一の倶胝の諸仏の説きたまう所なり。我いま之を説く。一切有情を利益し安楽ならしめ、一切の病を除き一切の悪を滅し、一切の不吉祥を止め、一切の悪夢想を却け、一切の非時の死を遮り、諸の悪心ある者をして調い浄からしめ、憂苦ある者は安楽を得、怨対ある者は和解を得、魔鬼の障礙はみな消滅し、心に願い求むる所はみな称い遂げしめんと欲するが故なり。
世尊よ、わたしには「十一面」という名の心真言があります。大いなる力をそなえ、数えきれないほど多くの仏たちが説いてこられたものです。わたしはいまこれを説きます。すべての生きものを救って安らかにし、あらゆる病を除き、あらゆる悪をなくし、よくないこと、悪い夢、思いがけない死を遠ざけ、悪い心の人を穏やかに浄め、苦しむ人に安らぎを与え、憎み合う人を和解させ、魔やさわりをすべて消し、心に願うことをすべて叶えさせるためです。
玄奘訳『十一面神咒心経』(大正蔵 No.1071)
「十一面」とは、まずこの真言の名だったのです。やがて、その真言にこめられた「あらゆる方向へ向かって人々を救おうとする慈悲のはたらき」を、十一の面をもつお姿としてあらわすようになりました。腕が四本ある四臂の十一面観音の作り方がお経に出てくるのは、さらに後の、不空三蔵が訳した八世紀になってからです。
つまり、成り立ちの順は、はたらき(人を救う慈悲)が先、それを言葉にした真言が次、目に見えるお姿が最後、という三段階でたどれます。
十一面観音の十一の面は、それぞれ違う表情をしています。喜ぶ者にはともに喜び、悪をなす者には怒りをもって正し、どの相手にもふさわしい顔を向けて救う。そのはたらきを、面の配置であらわしています。
正面の三面
善き行いの人を見て慈しみの心をおこし、楽しみを与えます。
左の三面
悪い行いの人を見て悲しみの心をおこし、苦しみから救おうとします。
右の三面
清らかに励む人を見てたたえ、いっそう仏の道へと進ませます。
後ろの一面
善も悪も入りまじった人を見て、大笑いして悪を改めさせ、道へ向かわせます。
頂上の一面
大乗の教えを修める人に、究極の仏の道を説きます。
十一面とは、実は是れ十二面なり。上の仏面は是れ果、下の菩薩面は是れ因なり、謂わく是れ因果の一双なり。亦た上の十一面は是れ方便面、下の一面は是れ真実面なり、謂わく是れ真実方便の一双なり。是の十一面の中、前の三面は慈相、左の三面は瞋相、慈は是れ文、瞋は是れ武、謂わく是れ文武の一双なり。右の三面は白牙なり。自在菩薩、十一面を変現し、或いは仏面を現じ、或いは慈面を現じ或いは瞋面を現じ、或いは白牙上出を現じ或いは暴大笑面を現ず。十一を現ずと雖も、本体は不二なるが故に、変現の面を挙げて故に十一面と曰うなり。
十一面とは、じつは十二の面である。頂上の仏面は悟りの結果(果)、もとの菩薩の顔は修行の原因(因)で、因と果の一組をなす。また上の十一面は人々を導くための方便の顔、もとの一面は本来の真実の顔で、真実と方便の一組をなす。この十一面のうち、正面の三面は慈悲の相、左の三面は怒りの相であり、慈悲が文、怒りが武で、文と武の一組をなす。右の三面は牙をあらわす相である。観自在菩薩は十一の面を現し分け、あるいは仏の顔、あるいは慈悲の顔、あるいは怒りの顔、あるいは牙をあらわす顔、あるいは大きく笑う顔を現す。十一を現しても本体は一つであり、その現し分けた面を数えて「十一面」と名づけるのである。
慧沼『十一面神呪心経義疏』(大正蔵 No.1802。玄奘訳に現存する唯一の注釈書)
お像の手の数には、二臂(腕が二本)と四臂(腕が四本)の二通りが経典に説かれます。二臂は玄奘訳、四臂は不空訳にもとづきます。日本で広まったのは玄奘訳系で、左手に蓮華をさした水瓶を持ち、右手に数珠をかけて施無畏(人々の恐れを取り除く印)をあらわす姿が基本です。頭上の宝冠のなかには、それぞれ化仏がやどります。古い訳ではこの化仏を阿弥陀仏と明示し、観音と阿弥陀の深い結びつきを示しています。
「なぜ十一なのか」は、研究者のあいだでもいまだ決着していない問いです。
日本でもっとも有力な説です。『法華経』「観世音菩薩普門品」の「普門(梵語サマンタムカ samanta-mukha、あまねき門・あらゆる方向への面)」から、「十一面(エーカダシャムカ ekādaśa-mukha)」が展開したとみます。梵語のムカ(mukha)は「顔」だけでなく「門」「方向」も意味し、二つの語は同じ語幹で響き合います。
古代インドの神話にあらわれる「十一のルドラ神」との関連をみる説です。ルドラ(シヴァ神)は暴風の神でありながら、治癒と安らぎもつかさどる両義的な神で、十一面の慈悲の顔と忿怒の顔の両面に通じます。
十一面を、菩薩の修行の十の段階(十地)に、仏の悟り(仏果)の一を加えた数とみる、象徴的な解釈です。
十一面を、人々を悩ます十一種の根本的な迷い(無明)を断ち切るはたらきの数とみる解釈です。
これらを総合すると、「十一面」という名の心真言は、諸仏が遠い過去から伝えてきた、あらゆる方向を向いてすべての人を苦しみから救い悟りへ導こうとする、慈悲と智慧にもとづく誓いと救いの力を、〈十一面〉という方向性をもって形にしたもの、と言えます。十一という数の解釈にこだわるより、「あらゆる方向に顔を向けて救う」というはたらきにこそ、この尊の本質があります。
十一面観音のもとになったお経は、『十一面観世音神咒経』の系統です。古い形から少しずつ書き足されながら各地へ広がり、いまは梵語・チベット語・漢訳をあわせて七種類が伝わっています。そのうち漢訳が四つです。
日本でもっとも広く読まれた版。簡潔で、十種勝利・四種功徳・造像・護摩・治病をまとめて説きます。
もっとも密教的に整った版。十一面四臂のお像の作り方が初めて説かれ、息災・増益・降伏・敬愛の四種の護摩を炉の形まで体系化します。
古い形を伝える版。頭上の化仏を「阿弥陀仏」と明示します。
十一面観音を中心とする七日の供養壇法(マンダラ)を、もっとも詳しく伝えます。
敬礼三宝。敬礼聖智海遍照荘厳王如来。敬礼一切如来応正等覚。敬礼聖観自在菩薩摩訶薩大悲者。怛姪他 闇 達囉達囉 地𭌆地𭌆 杜嚕杜嚕 壹𪘨伐𪘨 折隷折隷 鉢囉折隷 鉢囉折隷 俱素謎 俱蘇摩伐隷 壹履弭履 止履止徵 社摩波隷耶 戍陀薩埵 莫訶迦嚧尼迦 莎訶。
三宝に敬礼します。聖なる智海遍照荘厳王如来に敬礼します。すべての如来・応供・正等覚に敬礼します。聖観自在菩薩摩訶薩、大悲者に敬礼します。これに続く「怛姪他(タニャタ)」以下は、仏の言葉そのものである呪であり、意味に置き換えず、音のままおとなえします。となえやすい読み方は、次の「おとなえする真言」でお示しします。
玄奘訳『十一面神咒心経』(大正蔵 No.1071)。三宝と諸仏への帰命(よりどころとして礼拝すること)のあとに、観音の救いを願う呪句が続きます。
四つの漢訳とチベット訳・梵本の心真言は、原文を照らし合わせると本体がほぼ共通しており、同じ源にさかのぼることが確かめられます。お像の作り方や護摩・治病の作法は時代とともに増広されていきましたが、その中心には一貫して、「十一面」という名の心真言がありました。ここにも、心真言こそが信仰の核であったことがあらわれています。
十一面観音には、いくつかの真言が伝わります。さきほど経典の言葉として漢字で示した十一面神咒も、ここではとなえやすい読みで示します。性質の違いを知っておくと、おとなえの心持ちも深まります。
おん ろけい じんばら きりく
oṃ lokeśvara hrīḥ
「世自在(観自在)よ」と呼びかけ、蓮華部の種子 紇里(hrīḥ)で結ぶ真言です。観自在としての観音さまへの帰依をあらわします。
おん まか きゃろにきゃ そわか
oṃ mahā-kāruṇika svāhā
「おお、大悲者よ」と、観音さまの大いなる慈悲に帰依する真言です。根本経典が観音を「大悲者(莫訶迦嚧尼迦)」とたたえる言葉に由来します。観音さまに広く用いられ、十一面観音にもっともよくおとなえされます。
タニャタ オン タラタラ チリチリ トロトロ イテイハテイ シャレイシャレイ ハラシャレイ クソメイ クソメイ ハレイ イリビリ シリシリ チ ジャラ マハノウヤ ハリ マ シュダサトバ マカキャロニキャ ソワカ
tadyathā oṃ dhara dhara dhiri dhiri dhuru dhuru iṭṭe vaṭṭe cale cale pracale pracale kusume kusuma-vare ili mili citi jvalam-āpanaya śuddha-sattva mahā-kāruṇika svāhā
経典に説かれる、「十一面」という名の根本の心真言(長い真言)です。さきほど経典の言葉として漢字で示した十一面神咒(敬礼三宝…莎訶)を、となえやすい読みにしたものがこれです。経典では、三宝と諸仏への帰命のことばに続けて、この「タニャタ」以下の呪句をとなえます。十種勝利などの利益は、この心真言を百八遍となえることに説かれています。
世間では「おん まか きゃろにきゃ そわか」が十一面観音固有の真言と思われがちですが、これはもともと観音全般にあてはまる大悲讃です。十一面ならではの真言は、ここにあげた長い心真言(十一面神咒)です。どの真言も、観音さまの大悲に心を向ける入口であることに変わりはありません。
さきほどの十一面神咒をとなえる人には、この身のままで得られる現世の利益が説かれます。なかでも有名なのが、玄奘訳の「十種勝利」と「四種功徳」です。
毎晨朝の時、法の如く清浄にして、此の呪を念誦すること一百八遍す。若し能く是くの如くせば、現身に十種の勝利を獲得す。何等をか十と為す。一には身常に病無し、二には恒に十方の諸仏に摂受せらる、三には財宝・衣食、受用尽くること無し、四には能く怨敵を伏して畏るる所無し、五には諸の尊貴をして恭敬し先言せしむ、六には蠱毒・鬼魅、中傷すること能わず、七には一切の刀杖、害すること能わず、八には水も溺らすこと能わず、九には火も焼くこと能わず、十には終に横死せず。復た四種の功徳勝利を得。一には命終わらんとする時、諸仏を見たてまつることを得、二には終に諸の悪趣に堕ちず、三には険厄に因りて死せず、四には極楽世界に生ずることを得。
毎朝、作法どおり身を清めて、この十一面神咒を百八遍となえる。そうすれば、この身のままで十種の勝利を得る。十とは何か。一に、身はつねに病がない。二に、つねに十方の諸仏に護られる。三に、財宝や衣食に不自由しない。四に、敵を伏してもおそれることがない。五に、尊い人々から敬われ、先に声をかけられる。六に、毒や物の怪に害されない。七に、あらゆる刀や杖に傷つけられない。八に、水に溺れない。九に、火に焼かれない。十に、ついに思いがけない死をしない。さらに四種の功徳を得る。一に、命を終えるとき諸仏を見たてまつる。二に、ついに悪い世界(悪趣)に堕ちない。三に、険しい災いによって死なない。四に、極楽世界に生まれる。
玄奘訳『十一面神咒心経』(大正蔵 No.1071)
古形にもとづくと、これらの利益は合わせて二十四種に整理されます。訳本によって項目は少しずつ異なりますが、無病や災いを避けることなど、現世を健やかに過ごす願いと、臨終ののちの極楽往生が、ともに説かれている点は共通します。十一面観音が病気平癒・無病息災・厄除けの仏として親しまれてきたのは、この経典の説きに根ざしています。
真言宗にとって、十一面観音は「観音=蓮華部」という体系のなかに位置づく、変化観音の一尊です。
真言宗は、弘法大師空海が伝えた密教の宗派です。密教では、仏の世界をあらわす図(曼荼羅)のなかで、はたらきの似た仏たちをいくつかの「部」に分けます。慈悲をつかさどる仏のグループが「蓮華部」、智慧をつかさどるグループが「金剛部」です。
空海が日本に伝えた『大日経』とその注釈『大日経疏』では、観自在(観音)は、すべての仏の根本である大日如来の慈悲のはたらきを担う「蓮華部」の中心(部主)と定められます。多羅・馬頭・白処尊といった観音院の諸尊は、みなこの観自在の徳が展開したものです。十一面観音も、この蓮華部に連なる変化身の一つです。
『大日経疏』は、まず蓮華部と金剛部を、こう説きます。
右方は是れ如来の大悲三昧なり、能く万善を滋榮す、故に蓮華部と名づく。左方は是れ如来の大慧の力用なり、能く三障を摧破す、故に金剛部と名づくるなり。
右方は、如来の大悲のはたらき(大悲三昧)であり、あらゆる善を育て栄えさせるので「蓮華部」と名づける。左方は、如来の大いなる智慧のはたらきであり、迷いをさえぎる三つの障りを打ち砕くので「金剛部」と名づける。
『大日経疏』巻五(大正蔵 No.1796)
経に「大日の右方に大精進・観自在を置く」と云うは、即ち是れ蓮華部主なり。謂わく如来、究竟して十縁生句を観察し、此の普眼の蓮華を成ずることを得、故に観自在と名づく。如来の行に約するが故に、菩薩と名づく。「頂に無量寿を現ず」とは、此の行の極果を明かす、即ち是れ如来の普門方便智なり。
経に「大日如来の右方に大精進・観自在を置く」とあるのは、すなわち蓮華部の主のことである。如来がきわめ尽くして十縁生句(すべては縁によって生じるという十のたとえ)を観じ、この「あまねく見そなわす蓮華」を成就するので「観自在」と名づけ、如来の行いにそくしていうので「菩薩」と名づける。「頂に無量寿(阿弥陀)を現す」とは、この行きつく先の悟りを明かすもので、すなわち如来の普門方便智(あらゆる方向に開かれた、人を救う巧みな智慧)である。
『大日経疏』巻五(大正蔵 No.1796)
是の故に観自在菩薩は蓮華を手に持し、一切有情の身中の如来蔵性・自性清浄の光明にして、一切の惑染も染むること能わざるを観ず。観自在菩薩の加持に由りて、離垢清浄にして聖者に等同なるを得。
それゆえ観自在菩薩は蓮華を手に持って、すべての生きものの心のなかにある、仏となる本性(如来蔵)、生まれつき清らかな光が、どんな迷いや汚れにも染められないことを観る。観自在菩薩の加持によって、汚れを離れた清らかさを得て、聖者にひとしくなる。
不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣釈(理趣釈)』(大正蔵 No.1003)
『理趣釈』が説くように、観自在菩薩のはたらきの核心は、すべての人の心のなかにある清らかな本性(如来蔵・自性清浄)を見守り、それが迷いや汚れに染まらないところにあります。蓮華が泥のなかにあって汚れに染まらないように、人の本性は本来清らかである。この自性清浄の教えは、この身のままで仏になるという即身成仏の根拠とも、深くつながっています。
十一面観音を本尊として修するとき、手に印を結び(身密)、十一面の真言や種子(仏を一字であらわす梵字)紇里をとなえ(語密)、観音のお姿を心に観じる(意密)。この身・口・意の三つをそろえる「三密」の行を通して、観音の大悲をわが身に成就していきます。護摩の成就法では、最後に頂上の如来面(阿弥陀)が修行者の願いの成就を告げると説かれます。慈悲・忿怒・大笑・如来相を一身に併せ持つ十一面のすがた全体が、修法を通して行者にひらかれていくのです。
玄奘訳の流布が、中国と日本での盛んな造像をうながしました。十一面観音は、変化観音のなかでもっとも広まった形式となり、のちに千手観音と並ぶ人気の仏となります。
純粋な密教が伝わる前から、十一面観音は信仰されました。法隆寺金堂の壁画にも描かれ、奈良時代には病気治癒など現世の願いの本尊として、多くのお像がつくられました。
右手に錫杖、左手に蓮華をさした水瓶を持ち岩上に立つ「長谷寺式十一面観音」のように、日本独自の像容も生まれました。
十一面観音は、六道(迷いの世界)の衆生を救う「六観音」の一尊にも数えられ、おもに修羅道を救う観音として配当されます。
東大寺二月堂の「お水取り」は、正式には「十一面悔過」といい、本尊の十一面観音に罪を懺悔し、国の安らかさと人々の幸いを祈る法会です。天平勝宝四年(752)以来、絶やさず続けられています。十一面観音は、懺悔と国の安穏を祈る本尊としても、深く親しまれてきました。
四国八十八ヶ所第二十二番札所、高野山真言宗の平等寺(徳島県阿南市)では、本堂の本尊である薬師如来とともに、持仏堂の本尊として十一面観音をお祀りしています。平等寺は、薬師如来の別名「醫王善逝」にちなむ「醫王院」と、十一面観音にまつわる「日光院」の、二つの院号をもちます。開創の朝に加持水の水面へ映った日光を、十一面観音のお姿と受け止めた言い伝えが、その「日光院」のいわれです。
持仏堂の十一面観音は、一木造の立像です。頭上に十一面をあらわし、蓮華と水瓶を持つお姿で、弘法大師の巡錫の頃にはすでにお祀りされていたと、寺伝に伝わります。
平等寺では、観音さまの縁日(仏とのご縁が深いとされる日)である毎月18日の夜に、十一面観音さまの御前で「十一面観音護摩」をお勤めしています。護摩とは、火を智慧の象徴とし、供物をささげて祈りを仏に届ける真言宗の修法です。経典に説かれる十種勝利、すなわち無病や、災いに遭わないことへの祈りを、護摩の炎にのせてお届けする法会です。

本記事は、次の原典と研究にもとづいて、高野山真言宗 平等寺 住職 谷口真梁(たにぐち しんりょう)が記しました。漢訳経論は大正新脩大藏經(CBETA)、梵語はギルギット写本などの校訂本、チベット訳はデルゲ版カンギュルの本文から確認しています。「No.」は大正新脩大藏經の経・論番号、「Toh」はデルゲ版(カンギュル)の東北大学目録番号です。
十一面観音と平等寺の祈りを、さらに知るための記事です。