一日目


八十八ヶ所巡り 第2回
一泊二日・全7回シリーズの第2回
2026年10月10日(土)・11日(日)、平等寺では土砂加持追善並びに身体健全薬師供法会をお勤めし、薬王寺、太龍寺、鶴林寺、立江寺へ。 翌日は最御崎寺から善楽寺まで、四国の右下に連なる札所を巡ります。
日程
10.10土
10.11日
参加費
50,000円
宿泊・朝食・昼食二回・夕食・バス代・無線機器代込
宿泊は阿南市内分宿
納経代は別途・当日ご持参ください
※第1回のバスの中でお話ししていた45000円から、夕食・朝食・無線機器代が抜けていたので50000円になりました。
住職より
第2回は、平等寺で土砂加持追善並びに身体健全薬師供法会をお勤めしてから、四国の右下を大きく巡る巡拝です。第1回から続けて歩まれる方にも、この回からご参加の方にも、四国遍路の道筋が大きく広がっていく二日間になります。
太龍寺・鶴林寺・神峯寺など、山の札所を含む行程です。貸切バスとロープウェイを使いながら、無理なく一ヶ寺ずつ手を合わせられるようご案内いたします。
お参りの作法や読経に不安がある方も心配いりません。札所ごとの由緒や見どころを住職がその場でお話ししながら進みます。
こんな方に向いています
はじめての方へ
読経の声を合わせる、山門で一礼する、納札を納める。こうした作法は、当日その場で一つずつご案内します。初めての方も、どうぞ安心してご参加ください。
白衣や輪袈裟などの巡礼用品は、すべてが揃っていなくてもご参加いただけます。納経をされる方は、納経帳や納経代を当日ご持参ください。
第2回は四国の右下を大きく回る、移動距離の長い行程です。歩きやすい靴と、バス車内で体温調整できる上着をご用意ください。
この回の特徴
宿泊と移動
四国の右下を大きく巡る長距離の回です。一日目は夕食後にホテルへ入り、二日目は早朝出発で海辺と山の札所へ向かいます。バス移動中に休みながら巡れるよう、余裕を持って身支度を整えてください。集合時間以外の時刻は、道路状況・天候等により前後する場合があります。巡拝予定
一日目
二日目
第2回
2026年10月10日・11日(土日)第19番立江寺から第30番善楽寺までの札所範囲を、行程順に平等寺から巡り始め、四国の右下を大きく巡ります。
集合
平等寺法会
帰着
旅行取扱
見どころ
一日目
2026年10月10日(土)徳島駅集合
平等寺
平等にへだてのなきと聞く時は あらたのもしき仏とぞみる
寺の名のとおり、薬師如来は誰をも平等に分け隔てなくお救いくださると聞けば、まことに頼もしい仏であると仰ぎ見られる。
この札所について
四国の右下巡礼の起点。土砂加持追善並びに身体健全薬師供法会をお勤めし、二日間の巡拝を始めます。平等寺は、白水山医王院と号する第二十二番札所で、御本尊は薬師如来です。弘法大師が加持水を求めて井戸を掘ると乳のような白い水が湧いたと伝わり、その白水の井戸は病を癒やす霊水として信仰されてきました。大師はその霊水で身を清め、薬師如来を刻んで安置し、すべての人を平等に救う誓願を寺名に込めたと伝えられます。本堂には、足の不自由な参拝者が回復を感謝して奉納した箱車も残り、薬師信仰が生活の苦しみに寄り添ってきたことを物語ります。10月10日の最初の平等寺では、土砂加持による追善供養ならびに身体健全のご祈祷を行うため、「土砂加持追善並びに身体健全薬師供法会」としてお勤めします。この法会のお申し込みは、巡拝ツアーとは別に後日受付を開始します。山門から本堂へ進む時間は、参加者が読経の声をそろえ、これから四国の右下をめぐる身支度を整える起点です。由来記によれば、弘仁5年(814年)三月中旬、弘法大師が当地を巡錫し、北の山野に閻浮提金の蓮華を投げると、それが古松の枝に懸かって瑞相を現した。大師が誦行三昧に入ると、空中に圓光蓋の如く光が現れ、その光の中に瑠璃の鑁字を顕して薬師如来の姿となり、「我、衆生の苦を醫し去ること平等不偏なるべきぞ」と誓われた。大師は一刀三礼で薬師如来と日光月光菩薩・十二神将を刻み、七塔伽藍を起して寺号を平等寺と定めた。加持水を得ようと独鈷で山崖を穿つと乳白色の霊泉が湧き、山号を白水山と定めた。この霊水で身を清め、百日間の護摩を修したのち本尊を安置したと記される。
縁起そのものが弘法大師の修行伝承に基づく。境内の「白水の井戸(弘法の霊水・鏡の井戸)」は、大師が独鈷で山崖を穿つと乳白色の水が湧き出したという伝承の霊水で、現在も湧き、万病に効くとされて全国から汲みに訪れる人が絶えない。奥之院「月夜御水大師」(阿南市新野町月夜)は、大師が月を招き寄せて月夜とし、加持水を得たと伝わる霊跡である。







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薬王寺
皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬をあたえましませ
誰もが病に苦しむこの世にあって、薬王寺の御本尊である薬師如来よ、どうかその瑠璃光のお薬を授け、私たちの病を癒やしてください。
この札所について
阿波最後の札所として知られる厄除けの名刹。日和佐の町と海を背に、身を整えて土佐へ向かいます。薬王寺は、発心の道場と呼ばれる阿波最後の霊場で、全国的にも厄除けの寺として知られる別格本山です。境内へ向かう石段は、女厄坂三十三段、男厄坂四十二段、さらに瑜祇塔へ続く還暦厄坂六十一段へと重なり、参拝者は一段ごとに厄を落とす思いで登ります。弘法大師が四十二歳のとき、自身と衆生の厄除けを祈って薬師如来を彫ったという縁起も、この寺の信仰の中心です。日和佐の町を見下ろす境内では、海辺の札所らしい開けた景色と、厄を祓って次の道へ進む緊張感が重なります。平等寺で旅を始めた一行は、ここで阿波の結びに立ち、身口意を整えて土佐へ向かう準備をします。神亀3年(726年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創したと伝わる。弘仁6年(815年)には、平城上皇の勅命を受けた弘法大師空海がこの地に留まり、自身と衆生の42歳の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊に安置し、伽藍を建立したと伝えられる。これにより当寺は「厄除けの根本祈願所」と定められたと伝わる。空海はこの本尊の功徳を平城・嵯峨・淳和の歴代天皇に奏上し、厄除けの勅使が下されたとも伝えられる。山号「医王山」は薬師如来の別名「医王(医王善逝)」に由来し、衆生の病苦を癒す如来であることを示す。院号は無量寿院で、寺名は薬師信仰と厄除けの霊験に由来する。文治4年(1188年)の火災で堂塔を焼失した際、本尊の薬師如来は奥之院の玉厨子山へ自ら飛び去って焼失を逃れ、堂塔の再建ののちに光を放って戻り、後ろ向きのまま安置されたことから「後ろ向き薬師」と呼ばれる秘仏になったと伝わる。
弘仁6年(815年)、平城上皇の勅命を受けた弘法大師空海がこの地に留まり、自身と衆生の42歳の厄除けを祈願して一刀三礼し、薬師如来坐像を自ら彫造して本尊とし、当寺を厄除けの根本祈願所と定めたと伝わる。空海はこの本尊の功徳を平城・嵯峨・淳和の歴代天皇に奏上し、各天皇から厄除けの勅使が下されたとも伝えられる。境内の三つの厄坂(女厄坂33段・男厄坂42段・還暦厄坂)はこの厄除信仰に基づくもので、参拝者は一段ごとに賽銭(厄銭)を置きながら登り、厄を落とす。本堂裏には弘法大師の石像を祀る「肺大師」があり、台座から湧く霊水(瑠璃の水)が諸病に効くと伝わる。





太龍寺ロープウェイ
太龍寺
太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持は守護のためなり
太龍寺の名の通り龍が常に棲むという霊験あらたかなこの岩屋に、大師が舎心ヶ嶽で虚空蔵求聞持法を修されたのは、衆生を守護するためであった。
この札所について
ロープウェイで山上へ。若き空海の修行を感じる、阿波屈指の山岳札所です。太龍寺は、標高六百メートル級の太龍寺山に広がる山岳札所で、「西の高野」とも称されます。若き空海が十九歳のころ、境内の南西にある舎心嶽で百日間の虚空蔵求聞持法を修したと伝わり、その体験は『三教指帰』にも結びつけて語られてきました。虚空蔵求聞持法は真言を百万遍となえる難行で、記憶と智慧を得る修法として、大師青年期の思想形成に大きな意味を持ちます。太龍寺は焼山寺、鶴林寺と並んで阿波の難所に数えられ、山の厳しさがそのまま信仰の深さを伝える場所です。今回はロープウェイで山上へ向かうため、移動そのものが修行地へ近づく導入になります。老杉と堂宇の中で、智慧を求めて身を投じた空海の息遣いを感じながら参拝します。寺伝によれば延暦12年(793年)、桓武天皇の勅願により堂塔が建立され、弘法大師(空海)が虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、諸尊を安置して開創したと伝わる。本尊の虚空蔵菩薩像は弘法大師の作と伝わる。山号「舎心山」は、大師が若き日に修行した岩上「舎心ヶ嶽(舎心嶽)」に由来する。寺名「太龍寺」は、求聞持法を修する大師を守護したという大龍(龍神)にちなむと伝わる。標高618mの太龍寺山頂近くに堂塔が立ち並び、高野山奥の院に似た静かな伽藍配置から「西の高野」と称される。12の子院を擁したと伝わる。本尊真言「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」を百万遍となえる虚空蔵求聞持法の根本道場として、密教の修行地の性格を色濃く残す。
弘法大師(空海)は19歳の頃、境内の南西にある岩峰「舎心ヶ嶽(舎心嶽)」で、虚空蔵菩薩の真言を1日1万遍・100日間で百万遍となえる「虚空蔵求聞持法」を修したと伝わる。空海ゆかりの代表的な修行地である。空海の自伝的著作『三教指帰』の序文に「阿国大滝嶽に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す」とあり、この大滝嶽が現在の太龍寺山の舎心ヶ嶽にあたるとされる。修行中の大師を大龍(龍神)が守護したという伝承が寺名「太龍寺」の由来とされ、本尊の虚空蔵菩薩像も弘法大師の作と伝わる。南舎心ヶ嶽には、大師入山1200年を記念した求聞持修行大師像が立つ。




太龍寺ロープウェイ
菩提樹
鶴林寺
しげりつる鶴の林をしるべにて 大師ぞいます地蔵帝釈
生い茂る鶴の林(鶴林寺)を道しるべとして、ここには大師がおられ、本尊の地蔵菩薩と帝釈天が衆生を守っておられる。
この札所について
杉木立の山中にある「お鶴さん」。鶴が守った地蔵菩薩の伝承に手を合わせます。鶴林寺は、霊鷲山宝珠院と号する山寺で、地蔵菩薩を御本尊とします。弘法大師の修行中、雌雄二羽の白鶴が杉の梢で小さな金色の地蔵菩薩を守っていたという縁起から、「お鶴さん」と親しまれてきました。霊場会の紹介でも、地蔵菩薩立像、室町時代の年号を刻んだ丁石、県指定重要文化財の三重塔が見どころとして挙げられています。焼山寺、太龍寺と並ぶ阿波の難所に数えられる山の札所であり、たどり着くまでの道のりそのものが、地蔵菩薩に身を預ける祈りになります。太龍寺から下りた後に再び山へ向かうため、午後の参拝では身体の疲れも含めて祈りに変え、杉木立の静けさの中で歩みを急がず手を合わせます。寺伝では延暦17年(798年)、桓武天皇の勅願により弘法大師が開創したと伝わる。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼を広げ、老杉のこずえに舞い降りて1寸8分(約5.5cm)の黄金の地蔵菩薩像を守護していたという。大師はこれを感得し、霊木に3尺ほどの地蔵菩薩像を刻んで、その胎内に黄金の小像を納めて本尊とし、鶴の瑞祥にちなんで寺号を「鶴林寺」と定めたと伝わる。山号の霊鷲山(りょうじゅさん)は、釈迦が法華経を説いた天竺の霊鷲山(グリドラクータ)になぞらえたものとされる。創建後は平城・嵯峨・淳和の歴代天皇の帰依を受け、のちには源頼朝・源義経らの信仰も集めて栄えたと伝える。本尊地蔵菩薩は「矢負い地蔵」とも呼ばれ、胸に矢傷が残るとされるが、これは伝承の領域に属する。地元や遍路からは「お鶴さん」と親しまれている。
寺伝では弘法大師が開基。大師がこの山で修行中、雌雄の白鶴が黄金の地蔵菩薩像を守護して老杉に舞い降りたのを感得し、自ら3尺の地蔵菩薩像を刻んで胎内に黄金の小像を納め本尊としたと伝わる。本尊は「伝弘法大師作」とされる。山上に至る表参道は「遍路ころがし」と呼ばれる急坂の難所で、「一に焼山(焼山寺)、二にお鶴(鶴林寺)、三に太龍(太龍寺)」と称される阿波の三難所の一つに数えられる。







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立江寺
いつかさて西のすまいのわが立江 弘誓の舟に乗りていたらむ
いつになったら西方浄土を私の住まいとできるだろうか。立江寺の名にちなみ、弥陀の大誓願(弘誓)の舟に乗ってそこへ到り着きたいものだ。
この札所について
阿波の関所寺。夕方の参拝で、ここまでの道を省み、次の土佐へ向かう心を整えます。立江寺は、第十九番札所であると同時に「四国の総関所」として語られてきた寺です。寺の公式案内では、聖武天皇の勅命により光明皇后の安産を祈願して建立されたとされ、子安の地蔵尊、立江の地蔵さんとしても信仰を集めてきました。霊場会の見どころには、行基菩薩が白鷺に暗示を受けたと伝わる白鷺橋、そしてお京の髪が鐘の緒に巻き上げられたという黒髪堂の伝承が紹介されています。関所寺とは、単に通過点という意味ではなく、迷いや罪を抱えた心をそのまま先へ進ませない場所です。一日目の夕方、ここで延命地蔵菩薩に向き合い、翌日の室戸への長い移動に向けて心を正します。橋池山 摩尼院 立江寺は、天平19年(747年)に聖武天皇の勅願により、光明皇后の安産を祈って行基菩薩が開いたと伝わる。行基は閻浮壇金(えんぶだごん)の一寸八分(約5.5cm)の延命地蔵菩薩を刻んで本尊とした。伽藍を建てる地は、どこからともなく飛来した白鷺が橋の上にとまり、仏天の暗示として行基に示したと伝えられる。弘仁6年(815年)には弘法大師がこの地に留錫し、小像のままでは後世に紛失するおそれがあるとして、自ら六尺余りの大像を刻み、行基作の小像をその胸に秘め納めたという。このとき寺号を「立江寺」と定め、四国八十八ヶ所第19番の霊場とされたと伝わる。本尊は「子安の地蔵尊」「立江のお地蔵さん」と親しまれ、安産・子育ての霊験で全国の信仰を集めてきた。四国八十八ヶ所の根本道場、また邪心ある者を戒める「四国の総関所(阿波の関所)」として知られ、発心の道場(阿波)の関所寺にあたる。山号「橋池山」は、白鷺が橋にとまったという縁起と本尊の地蔵信仰とが、寺の由来に結ばれたものである。
弘仁6年(815年)、弘法大師が四国八十八ヶ所霊場を開創するためこの地に留錫したと伝わる。行基作の一寸八分の小さな延命地蔵菩薩では後世に紛失するおそれがあるとして、大師は自ら六尺余りの大きな地蔵像を刻み、行基作の小像をその胸に秘め納めたとされる。このとき寺号を「立江寺」と定め、第19番の霊場としたと伝えられる。







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えもと
阿南市内分宿
二日目
2026年10月11日(日)宿泊地出発
最御崎寺
明星の出でぬる方の東寺 くらき迷いはなどかあらまし
明星が昇る東の果てに建つこの東寺(最御崎寺)で、御本尊虚空蔵菩薩の智慧の光に照らされれば、心の暗い迷いがどうして残ろうか、すべて晴れていく。
この札所について
室戸岬に立つ土佐最初の札所。空と海がひらく場所で、虚空蔵菩薩に智慧を祈ります。最御崎寺は、修行の道場とされる土佐最初の霊場で、室戸岬の突端に立つ虚空蔵菩薩の札所です。霊場会は、太平洋の波涛と黒い岩礁、空と海が一体となる洞窟の樹下で、十九歳の空海が虚空蔵求聞持法に励んだと伝えています。『三教指帰』に見える「明星来影す」「明星口に入り」という体験も、室戸の修行伝承の核です。山号の室戸山が示すように、ここでは堂宇だけでなく、岬そのものが大師修行の舞台として迫ってきます。阿波から長く移動して到着する二日目の朝、ここで土佐遍路が始まります。海と空しかないような大きな景色の中で、虚空蔵菩薩の智慧を仰ぎ、巡拝の後半へ心を切り替えます。寺伝によれば、延暦11年(792年)、19歳の弘法大師空海は室戸岬付近の御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修し、明け方に虚空蔵菩薩の化身とされる明星(金星)が口に飛び込む神秘体験を得たという。24歳の著『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」と記される。大同2年(807年)、唐から帰朝した翌年、弘法大師空海は勅命を受けてふたたび室戸岬を訪れ、本尊の虚空蔵菩薩を一刀三礼して刻み開創したと伝わる。山号「室戸山」と寺号「最御崎寺」は室戸岬の最先端の地に由来し、院号「明星院」はこの明星感得の伝承にちなむとされる。第26番金剛頂寺を「西寺」と呼ぶのに対し、当寺は「東寺(ひがしでら)」と通称される。土佐国で最初の札所であり、嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の崇敬篤い勅願寺として栄えた。
当寺は、弘法大師空海の修行と開創の伝承が一体をなす札所である。延暦11年(792年)、19歳の空海は室戸岬付近の海蝕洞・御厨人窟(みくろど)に籠もり、虚空蔵求聞持法(百万遍の真言を唱える行)を修したと伝わる。行が成就する明け方、虚空蔵菩薩の化身である明星(金星)が口中に飛び込み、悟りを得たという。大同2年(807年)、入唐求法を終えた空海は勅命を受けて再びこの地を訪れ、本尊虚空蔵菩薩を一刀三礼して刻み開創したとされる。境内には空海ゆかりの「七不思議」(鐘石・喰わずいも・明星石・捻岩・行水の池・目洗いの池・一夜建立の岩屋)が伝わる。







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津照寺
法の舟 入るか出づるかこの津寺 迷ふ我身をのせてたまへや
仏法の救いの舟は、この津寺(津照寺)の港に入るのか出ていくのか。迷い続ける私の身も、どうかその舟に乗せてお救いください。
この札所について
室津の港町を見守る札所。急な石段を上がり、海上安全と延命を祈ります。津照寺は、室津港を見下ろす高台にある第二十五番札所で、御本尊は地蔵菩薩、特に楫取地蔵として親しまれています。高知県観光情報では、急な石段を登りきると本堂に着き、地元では津寺と呼ばれること、楫取地蔵は海上安全や豊漁の祈りと結びついて地元漁師の信仰が厚いことが紹介されています。霊場会も、本堂前から行当岬、室戸スカイライン、太平洋を望めることを見どころに挙げています。港を見守る地蔵菩薩の寺であるため、海辺を進む今回の行程では、単なる次の札所ではなく、海の危うさと恵みの両方に手を合わせる時間になります。室戸の海を背に進む第2回では、旅人の命を守る地蔵信仰が深く響きます。大同2年(807年)、弘法大師空海がこの地を巡錫した際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似た霊地であると感得し、一刀三礼して延命地蔵菩薩を自ら刻み、一寺を建立したと伝わる。山号「宝珠山」はこの感得に由来するとされる。寺は室津漁港を見下ろす小高い山上にあり、古くから「津寺(つでら)」と呼ばれて漁民の信仰を集めてきた。中世以降は長宗我部氏、近世には土佐藩初代藩主山内氏の庇護を受けて寺運が栄えたが、明治4年(1871年)の神仏分離・廃仏毀釈で一時廃寺となり、明治16年(1883年)に再興された。本尊の地蔵菩薩は、慶長7年(1602年)に山内一豊の船を暴風雨から救ったとの伝承から「楫取(かじとり)地蔵」と称され、海難よけ・海上安全の守り本尊として今も篤く信仰される。寺号「津照寺」は港(津)を照らす意ともいわれる。
弘法大師空海を開基とする。大同2年(807年)の巡錫の際、山容が地蔵菩薩の宝珠に似た霊地と感得して堂宇を建立し、一刀三礼して延命地蔵菩薩を自ら刻み本尊にしたと伝わる。本尊真言は「おん かかかび さんまえい そわか」。境内中腹より上の石段を上った先に大師堂があり、本尊楫取地蔵とともに弘法大師信仰の場となっている。






金剛頂寺
往生に望みをかくる極楽は 月のかたむく西寺の空
極楽往生を願う心を月の沈む西の空に重ねる。その月が傾いていく先に、西寺と呼ばれるこの金剛頂寺の空が広がっている。
この札所について
室戸三山の一つで「西寺」とも呼ばれる山寺。薬師如来の誓願に、健やかな旅を託します。金剛頂寺は、龍頭山光明院と号する第二十六番札所で、御本尊は薬師如来です。室戸の東側にある最御崎寺が東寺と呼ばれるのに対し、金剛頂寺は西寺とも呼ばれ、室戸の修行地を東西から受け止める位置にあります。霊場会の見どころには、霊宝殿、鯨供養塔、別名「クジラ寺」としての信仰、そして弘法大師が炊いた米が一万倍に増えて人々を飢えから救ったという一粒万倍の釜が挙げられています。薬師如来の病苦を除く誓願に加えて、飢えや海の暮らしに向き合う土地の祈りが重なる札所です。午前の室戸三山を締める参拝として、身体の健やかさと旅の支えを祈ります。寺伝によれば、大同2年(807年)、弘法大師空海が平城天皇の勅願を受け、薬師如来坐像を自ら刻んで本尊とし、「金剛定寺(こんごうじょうじ)」と号して創建したと伝わる。本尊が完成すると同時に、大師が「早く行きて座りたまえ」と言うと、像が自ら本堂の扉を開いて鎮座したという話が残る。のちに嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜したことから、現在の寺名に改めたとされる。淳和天皇も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命で選ばれたと伝わる。山号は龍頭山、院号は光明院。室戸岬の西、行当岬背後の高台(標高169m)に位置することから「西寺(にしでら)」と呼ばれ、東寺(24番最御崎寺)・津寺(25番津照寺)とともに「室戸三山」に数えられる。なお、空海が唐からの帰途に当たる大同元年(806年)に創建したとする説(『南路志』)もある。
本尊の薬師如来は弘法大師の自作と伝わり、完成と同時に像が自ら本堂の扉を開いて鎮座したという。大師は当地での修行中、天狗などの魔物を説き伏せて足摺岬の方へ追いやった「天狗問答」、楠の洞穴に自らの姿を描いて魔を寄せつけなくした逸話、修行を妨げる毒龍(伏龍)を加持祈祷で退散させた伝承などを残す。大師堂前の「一粒万倍の釜」は、大師が炊いた米が万倍に増えて人々を飢えから救ったとされる。明治初期まで女人禁制の修行道場で、女性は約4km離れた女人堂から遥拝したという。





ホテルなはり
神峯寺
みほとけの恵みの心神峯 山も誓いも高き水音
御本尊十一面観音の恵み深いお心がこもる神峯。その山も観音の誓いも高くそびえ、霊水を湛えた水音が高らかに響いている。
この札所について
土佐の関所ともいわれる急坂の札所。観音さまの慈悲に、息を整えて近づきます。神峯寺は、神峯山中腹に境内を構える第二十七番札所で、御本尊は十一面観世音菩薩です。霊場会は、神功皇后の時代に神社を起源とし、行基菩薩が十一面観音像を刻んで神仏合祀を行い、のち弘法大師が伽藍を整えたと伝えます。高知県観光情報では、仁王門まで「真っ縦」と呼ばれる急坂の参道が一キロ余り続き、歩き遍路にとって屈指の難所であること、岩崎弥太郎の母が息子の開運を祈って二十一日間日参した話、神峯の水が病気平癒の霊験で知られることも紹介されています。土佐の関所と呼ばれる厳しさは、観音さまの前へ近づくために心身を整える時間でもあります。昼食後に向かうこの札所は、バス巡拝でも土佐の山の深さを感じる要所です。寺伝によれば、神功皇后が三韓出兵に際して戦勝を祈り、天照大神をはじめ天地の神々を祀ったのが起源と伝わる。のち天平2年(730)、聖武天皇の勅を受けた行基が十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、神仏を併せ祀って堂を開いたと伝える。さらに大同4年(809)、弘法大師(空海)がこの地に堂宇を建立し「観音堂」と名付けたと伝わる。本尊の十一面観世音菩薩は行基作と伝えられる秘仏である。古くは山上の神峯神社(奥の院)と一体の神仏習合の聖地で、山名「神峯(こうのみね)」がそのまま寺名となった。院号「地蔵院」は、明治の廃寺と再興を経た大正元年(1912)に、茨城県稲敷郡朝日村の真言宗地蔵院の寺基を移して寺号を復興した経緯に由来する。山号「竹林山」と合わせ、現在は竹林山地蔵院神峯寺と称する。
大同4年(809)、弘法大師がこの地に堂宇を建立し「観音堂」と名付けたと伝わり、開基は弘法大師とされる。山中(標高約483m付近)には、大師が修法・秘策を練ったと伝わる3mを超える「腰かけ岩」が残る。大師堂は平成4年(1992)の建立で、胎内に「光現大師」と呼ばれてきた身丈1尺ほどの石像を納めた木造弘法大師坐像を安置する。






大日寺
露霜と罪を照らせる大日寺 などか歩みを運ばざらまし
露や霜のようにはかない罪までも照らし清めてくださる大日寺(大日如来)。そのみもとへ、どうして参拝の歩みを運ばずにいられようか。
この札所について
土佐平野に入り、大日如来の光明に手を合わせる札所。山の難所から里の祈りへ移ります。大日寺は、法界山高照院と号する第二十八番札所で、御本尊は金剛界大日如来です。霊場会によれば、行基菩薩作とされる大日如来坐像は高さ約百四十六センチの寄木造りで四国最大級、脇仏の聖観世音菩薩立像とともに国の重要文化財に指定されています。さらに奥の院には、大師ゆかりの楠の霊木に刻まれたと伝わる爪彫り薬師が祀られ、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があるとされます。薬師堂の脇には土佐名水四十選にも選ばれた大師御加持水も湧きます。神峯寺の急坂を越えたあと、里へ下りて大日如来の光明に包まれるように参拝する札所で、山岳修行の緊張から土佐平野の静かな祈りへ移る節目になります。寺伝では、天平年間(729〜749年)に聖武天皇の勅願を受けた行基菩薩が、金剛界大日如来の尊像を彫造して堂宇に安置し、当寺を開いたと伝わる。本尊の大日如来(マハーヴァイローチャナ)は真言密教で最も重要な根本仏とされ、寺号「大日寺」もこの本尊に由来する。山号は法界山、院号は高照院。その後一時荒廃したが、弘仁6年(815年)に四国を巡錫した弘法大師空海が、末世の人々の安泰を祈り、境内近くの楠の大木に爪で薬師如来像を彫って堂を建て、中興したと伝わる。このとき大師は、本尊大日如来の縁日が28日であることにちなみ、当寺を第28番の札所に定めたともいわれる。江戸時代には土佐藩主山内家の祈願所として栄え、大師堂の弘法大師像は二代藩主山内忠義の寄進と伝わる。明治の神仏分離・廃仏毀釈で一時廃寺となったが再興され、1200年余りにわたり法灯が守られている。
弘仁6年(815年)、四国を巡錫した弘法大師空海が末世の人々の安泰を祈り、境内近くの楠の立ち木に爪で薬師如来像を彫って堂を建て、荒廃していた当寺を中興したと伝わる。爪がノミ代わりになったという伝説から、この像は「爪彫薬師(つめほりやくし)」と呼ばれ、奥の院に祀られている。また大師は、本尊大日如来の縁日(28日)にちなみ、当寺を第28番の札所に定めたともいわれる。大師が杖を突いて湧かせたと伝わる「お加持水」も、奥の院近くに残る。







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土佐国分寺
国を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益残せり
国を分けて建てられた国分寺は、功徳の宝を積み重ねて造られた寺であり、末の世まで尽きることのない御利益をこの地に残してくれた。
この札所について
土佐国分寺として知られる古刹。千手観音の前で、二日間の巡拝を締めくくります。国分寺は、摩尼山宝蔵院と号する土佐の国分寺で、御本尊は千手観世音菩薩です。聖武天皇が国ごとに国分寺を建立した願いに連なり、土佐では行基菩薩が開山し、天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽を祈る寺として始まったと伝えられます。霊場会は、紀貫之が国司として滞在し『土佐日記』の記憶と結びつく国衙が近く、「土佐のまほろば」と呼ばれた土地であることも紹介しています。弘法大師はこの地で星供の秘法を修めたとされ、土佐国分寺は星供の根本道場ともされます。杉苔の庭、国指定文化財の金堂、土佐の政治と祈りの中心地としての歴史を感じながら、第2回の終盤を静かに結びます。寺伝では天平13年(741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔を受け、行基菩薩が千手観世音菩薩を刻んで本尊とし開創したと伝わる。当初は「金光明四天王護国之寺」と称した。発掘調査では天平勝宝8歳(756年)前後の創建を示す遺構が確認され、奈良時代の土佐国分僧寺の跡として、境内全域が国の史跡に指定されている。弘仁6年(815年)には弘法大師空海が巡錫し、自ら毘沙門天を刻んで奥の院に安置、当地で厄除けの星供(ほしく)秘法を修したと伝わる。以来、土佐国分寺は星供の根本道場とされ、大師像は「星供大師」と呼ばれる。山号の摩尼山は如意宝珠(摩尼)にちなみ、院号の宝蔵院は経蔵・宝蔵に由来するとされる。寺号の国分寺は、諸国に置かれた国分寺の制に基づく。本尊の千手観音は秘仏とされ、御詠歌は「国を分け宝を積みて建つ寺の末の世までの利益残せり」と詠む。
弘仁6年(815年)、42歳の厄年にあたる弘法大師が当寺を訪れ、自ら毘沙門天像を刻んで奥の院・南国市岡豊町滝本の毘沙門堂に安置したと伝わる。境内で星供(ほしく)の秘法を修したことから、土佐国分寺は「星供の根本道場」とされ、大師像は「星供大師」と称される。星供は、当年星・本命星や北斗七星を祀って厄災を除く真言密教の修法で、現在も2月3日の節分星祭りで「節分星供」が営まれる。空海は滝の音に導かれて身を清めてから当寺を訪れたとの伝承もある。





善楽寺
人多くたち集まれる一ノ宮 昔も今も栄えぬるかな
土佐一ノ宮のこの地(善楽寺)には多くの人が集い参り、昔も今も変わらず栄え続けていることだ。
この札所について
土佐一宮のほとりにある第三十番札所。阿弥陀如来の前で、土佐中央部の巡拝を結びます。善楽寺は、百々山東明院と号する第三十番札所で、御本尊は阿弥陀如来です。土佐国一宮である土佐神社のすぐ隣にあり、古くは一宮の別当寺として神仏習合の祈りを担ってきた札所です。公式案内では、納経時間は八時から十七時までとされるため、今回の行程では土佐国分寺から車で約二十分移動し、十六時二十分に参拝を始めて十七時に結ぶ時間配分にしています。境内では子安地蔵堂や、首から上の病や悩みに霊験があるとされる梅見地蔵も知られます。次の第三十一番竹林寺へ進む前に、阿弥陀如来の救いと一宮の古い信仰を重ねて受け止める場所です。室戸から始まった二日目を、土佐の古社と札所が並ぶ一宮の地で静かに締めくくります。寺伝によれば、大同年間(806〜810年)、弘法大師空海が土佐国一宮・高鴨大明神(現在の土佐神社)を訪れ、その別当寺として神宮寺とともに善楽寺を開創し、霊場と定めたと伝わる。本尊の阿弥陀如来も空海の作と伝える。山号「百々山(どどさん)」は、空海が国中の谷を数えたところ九十九谷しかなく、足りない一谷を当寺の開創で補って百谷としたことに由来するという。長く土佐神社の別当寺として栄え、江戸期には一時「長福寺」と号したが、九代将軍徳川家重の幼名(長福丸)を憚って善楽寺に改めたと伝わる。明治初年の神仏分離・廃仏毀釈により廃寺となり、本尊の阿弥陀如来は二十九番国分寺に預けられて、国分寺が納経を代行した。のちに本尊は南西約5.5kmに再興された安楽寺へ移された。昭和初期、埼玉県から東明院を移してこの地に再興され、寺号と霊場がよみがえった。院号「東明院」は、この再興のときに移された院号に由来する。
寺伝では、大同年間に弘法大師空海が土佐国一宮の別当寺として開創し、本尊の阿弥陀如来も空海の作と伝える。山号「百々山」は、空海が国中の谷を数えたところ九十九谷しかなく、当寺の開創で一谷を補って百谷とした伝承に由来するという。境内の子安地蔵は弘法大師の作と伝わり、大師が難産の妊婦のために祈祷して安産を成就させたという伝説をもつ。安産・子宝祈願の信仰を集める。大師堂は大正期の建立で、「厄除け大師」として知られる。




高知空港方面タクシー
高知空港
徳島駅
平等寺
今後の日程
第三回以降の日程も、現在予定している宿泊先と札所範囲をまとめています。
第3回
2027年3月6日・7日(土日)宿泊予定:岩本寺宿坊
第4回
2027年6月12日・13日(土日)宿泊予定:うわパーク
第5回
2027年10月9日・10日(土日)宿泊予定:道後温泉内
第6回
2028年3月11日・12日(土日)宿泊予定:琴平温泉内
第7回
2028年6月10日・11日(土日)宿泊予定:洲本温泉内