お彼岸とは、日本の仏教徒の中で、先祖供養を行うことが推奨される期間のことです。毎年2回、春分の日と秋分の日の前後1週間がお彼岸とされ、日本各地でお墓参りやご仏壇へのお供えなどが行われてきました。
先祖供養というと真夏のお盆が有名ですが、お盆はご先祖さまがこちらの世界に戻ってきてくれる期間であり、おもてなしすることが大切。
一方お彼岸は、こちらから仏さまの世界へと近づいていく時期であるため、それなりの修行が必要となります。
もちろん、闇雲に修行すれば良いわけではありません。六波羅蜜という専用のものが用意されているので、これを実践していきましょう。
秋のお彼岸の頃に必ず咲く花。
球根部分に有毒成分が多数含まれるため、田んぼの土手などに植えてモグラやネズミ除けに用いていたと伝わります。
墓地にもたくさん植えられています。
彼岸 はもともとインドの言葉で"Pāramitā"(パーラミター)といいます。完成されたものという意味で、仏さまの世界を表します。
我々の世界は 此岸 で、此岸と彼岸との間には大きな川が流れていて、遠く隔てられているという世界観です。
この川を越え向こう岸に渡ろうと、仏教では様々な乗り物(修行方法)が考えられました。日本に伝わった大乗仏教(大きな乗り物の仏教)は、六波羅蜜(Sadpāramitā、6つの波羅蜜)という乗り物(修行方法)を重要視することから、しばしば波羅蜜乗とも称されます。
お気づきの方も多いとは思いますが、彼岸と波羅蜜は共に"Pāramitā"の訳で、意味をとれば彼岸となり、発音をそのまま書き写すと波羅蜜となります。お彼岸とは、まさに波羅蜜を行う期間なのです。
日本では、先祖供養が六波羅蜜という修行を行う方法として推奨されてきました。以下に詳しくみていきましょう。
六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の6つからなる修行方法です。先祖供養としてお墓やご仏壇の前で行う以下のような行為は、この六波羅蜜の象徴とされています。
1つ1つどういうことかみていきましょう。
布施波羅蜜
布施(Dāna ダーナ)は、分け与えること。布施波羅蜜とは分け与える行為として完成されたものという意味で、見返りを求めずに何かを分け与える行為のことです。
人はつい、何かを渡せばそれなりの対価があって当然と考え、対価が少なければ不満を言い、多ければ得をしたと喜びます。
例えば、あなたが結婚披露宴に呼ばれたとしましょう。そのとき、お慶びとして渡した金額と比べて
などと思ってしまうと、せっかくの気持ちとして包んだお慶びのお金が、自分を苦しめることになります。
仏教では、「一切の見返りを求めることなく、誰かに強制されるわけでもなく、行いたい人が、行いたい分だけ、行いたいときに差し出す」という形のモノのやり取り(これを布施波羅蜜といいます)が推奨されています。こうすることで、他人とのやりとりの中で、余計な苦しみが生まれないようにするというお釈迦様の知恵です。
もちろん、お金だけではなく、様々な贈り物や、笑顔を見せること、何気ない心遣いなども対象になりますよ。
すれ違う人ともにっこり会釈してみましょう!
先祖供養の場においては、亡くなられた方に対してお供えものをすることが布施波羅蜜に当たります。
私たちは、故人へのお供えを通して、理想的なモノのやり取りの仕方を身につけ、生きている人にも同じような行いができるようにと修行しているのです。
なお、お墓にかけるお水(仏さまの身を清めるお水)は布施波羅蜜の代表格ですので、ぜひ行いましょう。
持戒波羅蜜
持戒(Śīla シーラ)は、戒を守ること。持戒波羅蜜とは「戒律を守り完成されたもの」という意味で、真言宗においては十善戒を守って暮らすという意味です。
戒とは、悪いことをせず、善いことを行うために定めらたルールです。真言宗は、10の項目からなる「十善戒」を守ることを勧めています。
1つ1つみていくと、小学生でも分かるようなことばかりですが、大人になればなるほど守るのが難しいもの。
急に守ろうとすると続きませんので、とりあえず一週間おやつを禁止にしてみるような感覚で、お彼岸の期間中、以下の項目を意識して暮らしてみましょう。次第に守ることが楽しみになってくるかもしれません。悪いことをせず、善いことをするって、当たり前ですが気持ちがいいことなんですよ。
体を清潔に保つことや、ご仏壇やお墓を掃除することは、自分の言動や心持ちを綺麗にすることと通じることから持戒波羅蜜の象徴となります(寺社にお参りした際の手水や塗香などで身を清めることも含む)。自分からすすんでやってみましょう。
忍辱波羅蜜
忍辱(kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。忍辱波羅蜜とは「耐え忍び完成されたもの」という意味で、心が乱れなくなりすべてを受け入れることができる状態のことです。
仏教の花といえば蓮華ですが、蓮華は泥の中で育ちながら、まったく汚れることなく美しい花を咲かせます。
どのような環境にあっても、自分の本質は汚れることがなく清らかである。何がっても耐え忍び、怒ることなく平然としている姿は、まるで蓮華の花のようです。
現代人にとっては我慢し続けるだけのようでちょっと嫌かもしれませんが、忍辱には細かく分けて3種類あるので、それぞれ詳しくみていきましょう。
忍辱の反対語は怒りです。
こういったことに対して怒っていると心は乱れます。相手の心ではなく、自分の心に注意をはらって、常に平静でいるよう務めましょう。
もちろん、我慢するのが目的ではなく、そうすることではじめて、見返りを求めない布施や、怒りに身を任せない持戒の修行が完成し、すべてを受け入れる土壌ができるからです。
相手の言動に一喜一憂せず、今やるべきことを行う。そのときに自分の心を守ってくれるのが忍辱で、あらゆる修行の基礎となるものです。
人生、思うようになることは多くありません。病気になることもあるし、人間関係で悩むこともあります。
もし、自分にふりかかる問題で、努力すれば解決可能なものであれば、悲しんだり、動揺したり、心配したり、怒ったり、いきどおったりせず、解決するために必要なことを粛々と行いましょう。
一方、どうやっても解決不可能なものであれば、怒ってもどうにもなりません。どうにもならないことに心を乱しては、それが新たな苦しみを生みます。
自分の状況と冷静に向き合い心を乱さないことで、すべてを受け入れる余裕と前に進む勇気が生まれます。
阿閦如来(あしゅくにょらい)は別名不動仏(ふどうぶつ)と呼ばれます。なにものも恐れない、大地のごとく動じない心を持った仏という意味で、忍辱行を極めて成仏しました。
修行は一進一退するものです。うまく耐えたと思うときもあれば、怒ってしまうこと、悲しんでしまうこともあります。人間ですもの。
こんなとき、やっぱり私は駄目だ、とか、こんな修行無理でしょ、などと否定することなく、反省すべきところは反省し、次への糧としていきましょう。
忍辱は、単純な我慢ではなく、すべてを受け入れ先に進む勇気を与えてくれるもので、これなくして布施波羅蜜・持戒波羅蜜は成立しません。
お彼岸でお墓やご仏壇にお花をお供えするときはぜひこのことを思い出し、どんな状況でも決まって花咲く植物をみて、自分も先に進む勇気をもらいましょう。
精進波羅蜜
精進(vīrya ヴィーリヤ)は、勇ましい者、という意味が転じて、継続して善い行いをすること。精進波羅蜜とは「継続した善い行いによって完成されたもの」という意味で、善い行いをし続ける状態のことです。
ただ、どんな形であれ善い行いを継続しさえすれば精進なるかといえば、そうではありません。
例えば、責任感や義務感などで行っている修行は精進ではありません。突発的に行ってすぐ飽きてしまうような活動も精進ではありません。
善い行いそのものが楽しみで、それをモチベーションとして持続できている状態のことを、はじめて精進と呼びます。
精進とは「善行ドリブン」な行為(善行に突き動かされた行為)といえます。
何が善い行いかは、持戒波羅蜜をご覧ください。
精進には対となる言葉がいくつかあります。
先延ばしにするということは、ようするに突き動かされていないということです。
やったほうが良いことがあるのにやらない、あるいはもっと楽なことに気持ちが動くというのは、同じく突き動かされていないということです。
私には無理だとあきらめるということは、つまり突き動かされていないということです。
大日如来(だいにちにょらい)のご真言「あびらうんけん」は、大勤勇(だいごんゆうざんまい・大いなる勇ましい勤め)の真言と呼ばれます。仏とは、人々の救済活動そのものを楽しみとして救済活動をつとめ続ける人のことです。
忍辱で前に進む勇気を得て、善行に励む精進を行えば、修行の完成は目の前です。
お彼岸の期間にこれらが身について楽しくなってきたら、ぜひ継続して行いましょう!
お供えものの霊供膳や食べ物は精進の象徴ですので、まずは仏飯を毎日お供えしてみると良いかもしれません。
禅定波羅蜜
禅定(Dhyāna ディヤーナ)は、瞑想すること。禅定波羅蜜とは「瞑想によって完成されたもの」という意味で、心を良い状態に保ち、洞察力や集中力があり、慈悲に溢れた状態にすることです。
瞑想というと、「無になれ」とか「煩悩を無くせ」といった言葉を想像する人もいると思いますが、六波羅蜜における禅定は以下のような意味です。
心が乱れていては、集中することはできません。
例えば、家で猫を飼っている人がいて、その猫を置いて家族全員で長期間の旅行に出かけたとします。
たとえ近所の人や預かりサービスなどを利用して世話を頼んでいたとしても、心のどこかでは猫のことが心配で旅行中も気がかりでしょう。
同じように、善行をなそうとしていても、他のことに気を取られていてはなかなかうまくいかないものです。
そこで、瞑想することで自分の心の中の余計な部分を削ぎ落とし、本当に必要なことは何かと洞察していきます。その過程で、「自分は○○だ」とか「あの人は□□だ」なども削ぎ落とし、ただ「善いことを行い、悪をなさないことで、苦しみを無くす」ということにのみ集中していきいます。
これによって、自然と怒りや自分と他人を比べるような心から離れ、心の平安を得ます。
お線香は禅定波羅蜜の象徴ですので、お香の良い香りを楽しみながら、ゆっくり瞑想してみましょう。
般若波羅蜜
般若(Prajñā プラジュニャー)は、智慧のこと。般若波羅蜜とは「智慧によって完成されたもの」という意味で、あらゆるものの本質は空性であり、
自分や他人という区別から離れた境地で世界を観察する智慧を指します。
これだけ聞くと難しいことのように思うかもしれませんが大丈夫。
布施→持戒→忍辱→精進→禅定と進むと自然とこの智慧が身につくという流れになっているのが六波羅蜜です。
いきなりゴールを目指すのではなく、一歩ずつ進んでいきましょう。
六波羅蜜はそれぞれ連動している修行です。
このような方法で般若波羅蜜をひとたび得ると、あとは無限ループ。これを悟り・解脱といい、六波羅蜜という乗り物に乗って、仏の世界である向こう岸、彼岸へと渡ることができます。
ご仏壇のロウソクはこの般若波羅蜜の象徴で、無明を照らすものです。皆さまも、この六波羅蜜の修行を通し、世界を照らす灯明となっていきましょう。
平等寺ではオンラインでお彼岸の供養を受け付けています。法会の中でご先祖さまや大切な人のお名前・ご戒名を読み上げてご供養させていただきますので、お気軽にお申し込みください。
お彼岸の期間中、毎日午後七時から供養法会を開催し、午後九時ころに終了いたします。住職がお経をお唱えしたあと、一人ひとりお名前を読み上げて供養させていただきます。ライブ配信の画面には、自分が申し込んだときに割り振られた祈願番号が表示されますので、いつ自分の読み上げがされたのか一目瞭然です。
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