輪廻とは、生まれ、死に、また生を受けることです。そこで疑問になるのが、「いまの私の中にある霊魂が、身体を離れて次の生へ移るのか」ということでしょう。釈尊は、この問いに直接かかわる言葉を残しています。
𠻬帝(さてい)という比丘は、「この同じ識が、変わらないまま次の生へ行く」と考えました。その識が語り、感じ、善悪の業の報いを受けるのだというのです。これは、識を輪廻の主体となる霊魂と見る考えです。釈尊は、この理解を誤りとして厳しく退けました。
- 日本語訳
- 私もこのように説く。識は因縁によって起こる。縁があれば生じ、縁がなければ滅する。識は何を縁として生じたかによって、その名で呼ばれる。眼と色を縁として生じた識を眼識といい、耳・鼻・舌・身、意と法についても同じである。火も、木を縁として生じれば木の火といい、草や牛糞の集まりを縁として生じれば草や牛糞の火という。
- 原文
我亦如是說,識因緣故起,我說識因緣故起,識有緣則生,無緣則滅,識隨所緣生,即彼緣。說緣眼色生識,生識已說眼識,如是耳、鼻、舌、身、意法生識,生識已說意識。猶若如火,隨所緣生,即彼緣,說緣木生火,說木火也。緣草糞聚火,說草糞聚火。
- 解説
- 出典
- 『中阿含経』二〇一経(𠻬帝経)
これは、輪廻や業の結果を否定する教えではありません。釈尊は、生と死の繰り返しも、行いが後の生へ結果をもたらすことも説きました。ただし、前の生から次の生へ、同じ霊魂が荷物のように運ばれていくのではありません。無明や渇愛、執着、行いが条件となり、次の生が起こります。受け継がれるのは一つの変わらない実体ではなく、因と縁のつながりです。
では、業を行った者と、その結果を受ける者は、同じなのでしょうか、別なのでしょうか。釈尊は「まったく同じ」とすれば永遠の霊魂を認める常見に陥り、「まったく別」とすれば行いと結果のつながりを切る断見に陥ると説きました。
- 日本語訳
- 行いをした者と結果を受ける者がまったく同じだとすれば常見に陥り、行いをした者と結果を受ける者がまったく別だとすれば断見に陥る。この二辺を離れ、中道によって法を説く。すなわち、これがあるからあれがあり、これが起こるからあれが起こる。無明を縁として行があり、こうして大きな苦の集まりが生じる。無明が滅すれば行が滅し、こうして大きな苦の集まりが滅する。
- 原文
自作自覺則墮常見,他作他覺則墮斷見。義說、法說,離此二邊,處於中道而說法,所謂此有故彼有,此起故彼起,緣無明行,乃至純大苦聚集,無明滅則行滅,乃至純大苦聚滅。
- 解説
- 出典
- 『雑阿含経』三〇〇経
この教えは、私たちの身体と心の見方にも及びます。釈尊は、身体と心を成り立たせる五蘊、すなわち色(身体)・受(感受)・想(表象)・行(意志を含む心のはたらき)・識(認識)について、一つずつ確かめました。
- 日本語訳
- 比丘たちよ、身体は我ではない。もし身体が我であるなら、身体が病に向かうことはなく、『私の身体はこのようになれ、このようになるな』と思うとおりにできるはずである。
- 原文
Rūpaṃ, bhikkhave, anattā. Rūpañca hidaṃ, bhikkhave, attā abhavissa, nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca rūpe – ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti.
- 解説
- 出典
- 相応部 無我相経(SN 22.59)
釈尊が示したのは、「人間は何もない」という虚無ではありません。私たちが「私」と呼ぶ経験は確かにあります。しかし、そのどこにも、変わらず独立し、思いどおりに支配できる核を見いだすことはできません。だから五蘊を、「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」と、ありのままに見るよう説きました。これが無我です。
それでは、「変わらない我は有るのか、無いのか」と二択で問われたときはどうだったのでしょうか。婆蹉種(ばさしゅ)という修行者に問われると、釈尊は黙って答えませんでした。弟子の阿難には、「有る」と答えれば常見を深め、「無い」と答えれば、もともとあった我が断滅したと誤解させるためだと説明しています。
「永遠の霊魂がある」「いま存在する霊魂が死ねば消える」。このどちらも、釈尊は「二辺」として斥けました。沈黙は、霊魂について何の見解も示さなかったという意味ではありません。同じ識が変わらず輪廻するという見方を退け、五蘊のどこにも固定した我を求められないと説いたうえで、その我を前提にした「有るか、無いか」という問いそのものを解いたのです。
輪廻はあります。しかし、輪廻する一つの霊魂があるのではありません。無明や渇愛を縁として生が続き、それらが尽きることで輪廻から解脱する。これが、霊魂を立てずに輪廻を説く釈尊の教えです。