「先祖が不成仏霊になって憑いている」という話は、「人が死んだあとも同じ魂がこの世に居残り、生きている家族に事故や病気を起こす」という前提に立っています。けれども、仏教を開いたお釈迦さま(釈尊)はそのような魂を説かれませんでした。
仏教には、生きものが死んでまた次の生を受ける「輪廻(りんね)」の教えがあります。ただしそれは、「いまの自分の魂が体から抜け出して、幽霊のように家の中を漂ったり、そのまま次の体へ乗り移ったりする」という意味ではありません。かつてサーティという弟子が、「見たり聞いたり感じたりしているこの心(識)こそ、死んでも変わらないまま移っていく魂だ」と主張したとき、お釈迦さまはそれをはっきりと否定されました。
そのときお釈迦さまは、私たちの心を「火」に譬えて説明されました。火は、薪があれば「薪の火」として燃え、草があれば「草の火」として燃え、燃料が尽きれば消えます。薪が燃え尽きたあとに「火の玉」だけが空中に残って、いつまでも家を漂い続けることはありません。人の心も同じで、体や周りの条件がそろっているあいだ働き、条件が尽きれば消えます。体を離れた霊魂が家に居座って、子孫に事故や盗難を起こすような仕組みは、仏教のどこにもないのです。
では、魂という入れ物が残らないのなら、生前の行いの結果はどうなるのでしょうか。また、相手が持ち出した「因縁」とは本来どういう意味なのでしょうか。お釈迦さまは、「同じ魂が死後もずっと続いて結果を運ぶ」という見方も、「死ねばすべて無になり、行いの結果も消える」という見方も、どちらも極端な誤りとして退けられました。そのうえで、「前の行いが条件となって、次の結果が生じる」という出来事のつながり(縁起)だけを説かれました。
つまり仏教でいう「因縁」とは、直接の原因(因)と周りの条件(縁)がそろって物事が起こる、という当たり前の道理を指す言葉です。呪いや汚れのように「家に悪い因縁がたまる」「高額な塩を買って悪因縁を切る」といった考え方は、仏教の教えとはまったく関係がありません。
死後の「魂」という思い込みと、お釈迦さまの教え「魂が居残って祟る」という思い込み
死後も同じ魂が家に居座り、家族に事故や病気を起こす
家に「悪因縁」が汚れのようにたまり、塩で断ち切れる
お釈迦さまが説いた「火と条件(因縁)」
薪が尽きれば火の玉が残らないように、体を離れて漂う魂はない
「因縁」は原因と条件のつながり。家にたまる呪いではない
- 日本語訳
- 識(心のはたらき)は因縁によって起こる。条件(縁)があれば生じ、条件がなければ消える。識は、何を条件として生じたかによってその名で呼ばれる。目と、目に見えるもの(色)を条件として生じた識を「眼識」といい、耳・鼻・舌・体、そして心(意)とその対象(法)についても同じである。ちょうど火が、何を燃料にして燃えたかで呼ばれるのと同じだ。薪によって燃えれば「薪の火」といい、草や牛糞によって燃えれば「草や牛糞の火」という。
- 原文
識因緣故起,我說識因緣故起,識有緣則生,無緣則滅,識隨所緣生,即彼緣。說緣眼色生識,生識已說眼識,如是耳、鼻、舌、身、意法生識,生識已說意識。猶若如火,隨所緣生,即彼緣,說緣木生火,說木火也。緣草糞聚火,說草糞聚火。
- 出典
- 『中阿含経』二〇一経(嗏帝経、パーリ『中部』MN 38 に対応)
- 日本語訳
- 行いをした者と結果を受ける者がまったく同じ実体だとすれば「常見(永遠に同じ魂が続くという見方)」に陥り、まったく無関係な別人だとすれば「断見(死ねばすべて断たれるという見方)」に陥る。この両極端を離れ、中道によって教えを説く。すなわち、「これがあるからあれがあり、これが起こるからあれが起こる」。無明を縁として行が生じ、こうして大きな苦しみの集まりが生じる。無明が滅すれば行が滅し、こうして大きな苦しみの集まりも滅する。
- 原文
自作自覺則墮常見,他作他覺則墮斷見。義說、法說,離此二邊,處於中道而說法,所謂此有故彼有,此起故彼起,緣無明行,乃至純大苦聚集,無明滅則行滅,乃至純大苦聚滅。
- 出典
- 『雑阿含経』三〇〇経(パーリ『相応部』SN 12.46 に対応)