太陽のことを思い浮かべてください。厚い雲がかかると、太陽は見えなくなります。けれども、そのとき太陽が壊れたわけでも、消えたわけでもありません。雲が晴れて日が差してきたときも、太陽が新しく生まれたのではない。ずっとそこにあったものが、また見えただけです。
真言宗の、いちばんもとにおられる仏さまを、大日如来(だいにちにょらい)と申します。大いなる日輪、という意味の名前です。この仏さまの光は、雲にも夜にも遮られず、生きている人にも、亡くなった方にも、同じように届いています。
もっとも、空にかかる本物の太陽では、譬えとしては足りません。少しだけ似ているから「大」の字を付けてお呼びするのだ、と古い解説書の『大日経疏』は述べています。
なぜ亡くなった方にまで届くと言えるのか。懐中電灯を思い浮かべてください。当てたところだけが明るくなり、当たらないところには影ができます。外から照らしているからです。距離があり、向きがあり、どうしても届かない場所ができます。
昼間の明るさは、そうではありません。どこか一点から当たっているのではないのに、空も、海も、あなたの手も、明るさのなかにあります。物陰でさえ、真っ暗にはなりません。
この仏さまの光は、そちらに近いのです。外から当てるのではなく、はじめから満ちている。真言宗は、この世界のいのちも、かたちあるものも、まるごとこの仏さまのお姿だと申します。ですから、光の当たらない場所というものがありません。
あの方は、その光のなかにおられます。あなたも、いまその光のなかにいます。同じ光のなかにいるのですから、遠いも近いもありません。どこまで届くかという距離の話ではなく、はじめから離れていない、ということです。姿が見えなくなったことと、いなくなったことは、違うのです。
仏さまと私たちの隔たりについて、弘法大師空海さまはこう述べておられます。むずかしい言い回しですので、読み流していただいて結構です。すぐあとで、一行にまとめます。
- 日本語訳
- あちらの身がそのままこちらの身であり、こちらの身がそのままあちらの身である。仏の身が衆生の身であり、衆生の身が仏の身である。異なりながら同じであり、異ならないけれども異なる。そのため、これらは平等で、互いを妨げない。
- 原文
彼身卽是此身。此身卽是彼身。佛身卽是衆生身。衆生身卽是佛身。不同而同不異而異。故三等無礙。
- 解説
- 出典
- 空海(遍照金剛)『即身成佛義』大正蔵 T77n2428
もとは同じ。すがたは別。あなたとあの方も、そうです。同じ光のなかにいて、根っこでは離れていない。それでいて、あなたはあなた、あの方はあの方のままです。混ざって一つになってしまうわけではありません。
真言宗では、のちにこの「二つでありながら、二つではない」ことを而二不二(ににふに)と呼ぶようになりました。もとは同じ。すがたは別。いま申し上げた、あの一行のことです。名前のほうは覚えなくてかまいません。覚えていただきたいのは、あの方が遠くへ行ってしまったのではない、ということだけです。
ですから「お帰りなさい」は、魂の通ってきた道すじを説明する言葉ではありません。思い出に話しかけているだけの言葉でもありません。もともと隔たっていない方へ、こちらから声をかける。それだけのことです。声をかければ、届きます。ここまでが、お盆についてのお答えです。