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お盆に帰ってくるのは誰ですか

あの人がもう生まれ変わっているのなら、迎え火を灯して待っているのは、いったい誰なのでしょうか。

いただいたご質問

解脱も即身成仏もできなかった人は輪廻していくと聞きます。それなら、お盆に会いに行っているのは誰なのでしょうか。また、自分にも前世があるのなら、その前世の自分も、どこかで誰かに供養されているのでしょうか。

仏教の教えと、日本の民間の信仰は、そもそも矛盾するものではないかとも思います。住職はどうお考えでしょうか。それから、お彼岸は先祖に会う日ではなく、仏に近づくための期間ということでしょうか。

2026年8月18日 拝受

住職の返答

お盆にお迎えするのは、お名前を呼べば顔の浮かぶ、あの方です。

生まれ変わっているからもういない、ということにはなりません。

お彼岸は、ご先祖に会う日というより、こちらから仏さまへ歩く期間です。

矛盾しているのではないか、というお見立てから申し上げます。矛盾していません。民間の習わしは、教えを土台にして建っているからです。お盆に会うのは誰か。お供えは届くのか。あなたの前世は供養されているのか。お彼岸とは何をする期間か。この順でお答えします。

まず、生まれ変わりは「引っ越し」ではありません

たき火の薪を替えるようなものだと、お釈迦さまは説かれました。

そう感じてしまうのは、亡くなった方のなかに魂という中身があって、それが体を出て次の体へ引っ越していく、と思っているからです。引っ越し先が決まってしまえば、こちらにはもう誰もいない。だから迎え火が宙に浮きます。

けれども、お釈迦さまはそうは説かれませんでした。あるお弟子が、こう言い出したことがあります。「見たり聞いたり感じたりしている、この心。これが死んでも変わらないまま、次の生へ移っていくのだ」。お釈迦さまは、これをはっきり退けられました。

そのとき使われたのが、火の譬えです。火は、燃えているものの名で呼ばれます。木で燃えれば木の火、草で燃えれば草の火。心もそれと同じだと説かれました(『中阿含経』二〇一経)。

たき火で薪をくべ替えるところを思い浮かべてください。火は燃え続けます。けれども、前の薪に付いていた火の玉のようなものが、次の薪へ乗り移ったわけではありません。新しい薪が、新しく燃えているだけです。それでも、火は絶えていない。いのちの続き方も、これに近いとお考えください。魂という決まった中身が、そっくりそのまま次の生へ引っ越していくのではないのです。

ですから、あの人の魂はいまどこにいるのか、と探しても答えは出てきません。仏教は、もともとそういう見方をしていないからです。分からないままで大丈夫です。それでも、こちらからのお供えは届きます。なぜ届くのか。つぎに、そこをお話しします。

つぎに、生まれ変わっていても、お供えは届きます

お盆の由来になったお経が、まさにその話です。

これからするのは、よその家の、遠い昔の話です。ご自分のお身内に重ねなくて結構です。

お釈迦さまのお弟子に、目連(もくれん)さんという方がおられました。亡くなったお母さまが、いつも飢えて満たされない苦しい世界に生まれておられるのを知ります。餓鬼(がき)と呼ばれる世界です。どうにもできず、目連さんは泣きます。

お釈迦さまは、こう教えられました。夏のあいだ籠もって修行していたお坊さんたちが、その修行を終える日に、みんなで食べものを供えて、そのお坊さんたちをもてなしなさい。旧暦の七月十五日のことです。そのとおりにすると、お母さまは、その日のうちに苦しみを離れました。

肝心なのは、お母さまがすでに次のいのちを受けておられたことです。それでも、手向けは届きました。お経はそう説いています。その箇所を引きます。むずかしい漢文が並びますが、日本語訳だけお読みください。

『佛說盂蘭盆經』のことば

日本語訳
仏さまは目連尊者に告げられました。「十方の僧侶が七月十五日に自恣を行う時、過去七世の父母と、今まさに苦難の中にある父母のために、さまざまな食べ物や品々を盆に整え、十方の徳ある僧侶たちを供養しなさい。」その時、目連尊者と集まった菩薩たちは大いに喜び、目連尊者の悲しみも消えました。目連尊者のお母さまは、その日のうちに、一劫にわたる餓鬼の苦を離れました。
原文
佛告目連:「十方眾僧於七月十五日僧自恣時,當為七世父母及現在父母厄難中者,具飯、百味五果、汲灌盆器、香油錠爥、床敷臥具,盡世甘美以著盆中,供養十方大德眾僧。」爾時目連比丘及此大會大菩薩眾皆大歡喜,而目連悲啼泣聲釋然除滅。是時目連其母即於是日,得脫一劫餓鬼之苦。
解説
「十方」はあらゆる方角、「自恣」は夏のあいだ籠もって修行したお坊さんたちがその修行を終える日、「七世父母」は七代前までのご先祖のこと。「一劫」は、気が遠くなるほど長いあいだ、という意味です。お母さまはすでに餓鬼として生まれておられました。それでも、目連尊者が僧侶たちをもてなした、その善い行いの果報によって、苦しみを離れたと説かれています。
出典
『佛說盂蘭盆經』大正蔵 T16n0685

自分がした善い行いの果報を、そのままあの方へ差し向ける。これを回向(えこう)といいます。お膳を供え、お経をあげ、僧侶を招くのは、この回向のためです。どこで、どのようないのちを受けておられても、こちらから差し向けるご縁は切れません。

ただ、このお経は「亡くなった方が毎年家へ帰ってくる」とまでは説いていません。ここで確かめられたのは、お供えが届くというところまでです。では、迎え火を灯して「お帰りなさい」と声をかけるのは、いったい何をしていることになるのか。そこをお話しします。

そして、「お帰りなさい」は気休めではありません

見えなくなったことと、いなくなったことは、違います。

太陽のことを思い浮かべてください。厚い雲がかかると、太陽は見えなくなります。けれども、そのとき太陽が壊れたわけでも、消えたわけでもありません。雲が晴れて日が差してきたときも、太陽が新しく生まれたのではない。ずっとそこにあったものが、また見えただけです。

真言宗の、いちばんもとにおられる仏さまを、大日如来(だいにちにょらい)と申します。大いなる日輪、という意味の名前です。この仏さまの光は、雲にも夜にも遮られず、生きている人にも、亡くなった方にも、同じように届いています。

もっとも、空にかかる本物の太陽では、譬えとしては足りません。少しだけ似ているから「大」の字を付けてお呼びするのだ、と古い解説書の『大日経疏』は述べています。

なぜ亡くなった方にまで届くと言えるのか。懐中電灯を思い浮かべてください。当てたところだけが明るくなり、当たらないところには影ができます。外から照らしているからです。距離があり、向きがあり、どうしても届かない場所ができます。

昼間の明るさは、そうではありません。どこか一点から当たっているのではないのに、空も、海も、あなたの手も、明るさのなかにあります。物陰でさえ、真っ暗にはなりません。

この仏さまの光は、そちらに近いのです。外から当てるのではなく、はじめから満ちている。真言宗は、この世界のいのちも、かたちあるものも、まるごとこの仏さまのお姿だと申します。ですから、光の当たらない場所というものがありません。

あの方は、その光のなかにおられます。あなたも、いまその光のなかにいます。同じ光のなかにいるのですから、遠いも近いもありません。どこまで届くかという距離の話ではなく、はじめから離れていない、ということです。姿が見えなくなったことと、いなくなったことは、違うのです。

仏さまと私たちの隔たりについて、弘法大師空海さまはこう述べておられます。むずかしい言い回しですので、読み流していただいて結構です。すぐあとで、一行にまとめます。

弘法大師空海さま『即身成佛義』のことば

日本語訳
あちらの身がそのままこちらの身であり、こちらの身がそのままあちらの身である。仏の身が衆生の身であり、衆生の身が仏の身である。異なりながら同じであり、異ならないけれども異なる。そのため、これらは平等で、互いを妨げない。
原文
彼身卽是此身。此身卽是彼身。佛身卽是衆生身。衆生身卽是佛身。不同而同不異而異。故三等無礙。
解説
「衆生(しゅじょう)」は、私たち生きとし生けるもののことです。言っていることは一つです。もとは同じ。すがたは別。仏さまと私たちは、根っこでは離れていない。かといって、混ざって一つになってしまうのでもない。そういう一節です。
出典
空海(遍照金剛)『即身成佛義』大正蔵 T77n2428

もとは同じ。すがたは別。あなたとあの方も、そうです。同じ光のなかにいて、根っこでは離れていない。それでいて、あなたはあなた、あの方はあの方のままです。混ざって一つになってしまうわけではありません。

真言宗では、のちにこの「二つでありながら、二つではない」ことを而二不二(ににふに)と呼ぶようになりました。もとは同じ。すがたは別。いま申し上げた、あの一行のことです。名前のほうは覚えなくてかまいません。覚えていただきたいのは、あの方が遠くへ行ってしまったのではない、ということだけです。

ですから「お帰りなさい」は、魂の通ってきた道すじを説明する言葉ではありません。思い出に話しかけているだけの言葉でもありません。もともと隔たっていない方へ、こちらから声をかける。それだけのことです。声をかければ、届きます。ここまでが、お盆についてのお答えです。

それから、あなたの前世も供養されています

名前を知らない誰かのために手を合わせる。それが回向の作法です。

はっとするご質問でした。輪廻するのなら、自分にも前世がある。その前世の自分にも、遺された人がいたはずだ。あの人たちは、自分を供養してくれただろうか。

されています。しかも、いまも続いています。

法事や施餓鬼(せがき)で僧侶が唱える回向の文には、必ず「法界萬霊(ほうかいばんれい)」という一句が入ります。「三界萬霊」ともいいます。この世界のありとあらゆる亡き方、という意味です。私たちは、自分の家のご先祖だけに手を合わせているのではありません。名前も知らず、縁もたどれない数えきれない亡き方へ、そのつど、その果報を差し向けています。

ですから、あなたの前世が誰であったにせよ、その人はもう供養を受けています。今日どこかの本堂で、あなたを知らない誰かが、あなたの前世のために手を合わせています。そして、あなたが今年お盆に手を合わせるとき、あなたもまた、誰かの前世のために手を合わせることになります。

供養は、家のなかだけで閉じるものではありません。誰が誰にというところを離れて、ぐるりとつながっています。ご質問の「自分の前世は」という問いは、その輪の一端に触れたものだと思います。

さいごに、お彼岸は、こちらから歩く期間です

お盆は迎える日、お彼岸は向かう日。役割が違います。

お彼岸については、お見立てのとおりです。ご先祖に会う日というより、こちらが仏さまのほうへ近づく期間です。

彼岸とは、向こう岸のこと。迷いのこちら岸から、さとりの向こう岸へ渡る、という意味です。渡るための舟が、六波羅蜜(ろくはらみつ)という六つの行です。施す、戒を保つ、耐える、努める、心を静める、智慧を磨く。春と秋の七日間のうち、中日(ちゅうにち)をのぞく六日に、一日ひとつずつ当てられました。

その中日が、春分と秋分です。太陽が真東から昇り、真西に沈みます。西に沈む日を拝み、その先の仏さまの世界へ心を向ける。日本では、この日取りに彼岸会が結びつきました。

では、お彼岸のお墓参りは間違いなのか。そうではありません。六つの行のいちばん最初は、施すことです。亡き方へ手を合わせ、花を供え、経を手向ける。これは施しであり、そのまま向こう岸へ渡る行になっています。ご先祖へ差し伸べた手が、そのまま自分を向こう岸へ運びます。

お盆とお彼岸は、向きが違います。お盆はあちらからお越しいただく日。お彼岸はこちらから向かう期間です。どちらも要るのは、私たちが片方だけでは続かないからだと思います。

あらためて、お答えします

住職の答え

お盆にお迎えするのは、お名前を呼べば顔の浮かぶ、あの方です。

あなたの前世も、どこかで誰かに供養されています。

お彼岸は、こちらから仏さまへ歩く期間です。

仏教と民間の信仰が矛盾する、というご懸念に、もう一度お答えします。迎え火や盆棚は、たしかに経典に書かれた作法ではありません。日本の家々が育ててきた習わしです。ただ、亡き方へ手を向ければ届くという一点は、経典の説くところそのものです。習わしはその上に建っています。だから寺は、ためらわずにお勧めします。

今年のお盆も、いつもどおりで結構です。お盆の入りの夕に迎え火を灯し、お仏壇とお膳を整え、お名前をお呼びしてください。お経を一巻あげられるなら、「どうぞあの方へ」と差し向けてください。それが回向です。作法の正しさより、お名前を呼ぶことのほうが、ずっと大切です。

あの方がいまどこにおられるのか、私たちには分かりません。分からないままで結構です。雲の向こうに太陽があるように、あの方は、見えなくなっただけで、いなくなってはおられません。

どうぞ迷わず、迎え火を灯してください。

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参考文献

参考文献

本文の確認に用いた原典と研究です。

経典

『中阿含経』二〇一経(嗏帝経)大正蔵 T01n0026
『佛說盂蘭盆經』大正蔵 T16n0685

真言宗

空海(遍照金剛)『即身成佛義』大正蔵 T77n2428
一行記『大毘盧遮那成佛經疏』巻一 大正蔵 T39n1796
龍曉『西院流能禪方傳授録』真言宗全書 第32巻034頁
俊然『四卷鈔』真言宗全書 第31巻291頁

研究

宮坂宥勝「弘法大師と興教大師―両部不二思想をめぐって」『智山学報』第40号、1991年
宮坂宥洪「お盆雑考」『現代密教』第32号、2020年

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