人が亡くなると、私たちは「どこか遠い場所へ行ってしまった」と感じます。けれども真言宗では、生きている私たちと亡くなった人が、遠く離れた別々の世界に分断されるとは考えません。
真言宗の中心におられる仏さまは、大日如来(だいにちにょらい)といいます。「大いなる太陽」という意味の名前です。古い解説書の『大日経疏(だいにちきょうしょ)』には、空の太陽には夜や日陰ができるけれども、大日如来の光には夜も影もなく、いつでも世界のすみずみまで満ちていると説かれています。真言宗では、この世界のすべてのいのちを、大日如来のひとつの大きな命の現れと見るのです。
いま生きているあなたも、亡くなった大切な人も、同じ大日如来の命のなかに包まれています。空の太陽が厚い雲に隠れると目には見えなくなりますが、太陽そのものが消えたわけではありません。それと同じで、亡くなった人は姿が見えなくなっただけで、あなたとつながる命の根っこから消えてしまったわけではないのです。
弘法大師空海さまは、『即身成佛義(そくしんじょうぶつぎ)』でこのつながりを次のように説かれています。
- 日本語訳
- あちらの身がそのままこちらの身であり、こちらの身がそのままあちらの身である。仏の身がそのまま生きとし生けるもの(衆生)の身であり、生きとし生けるものの身がそのまま仏の身である。違いながら同じであり、同じでありながら違っている。だからすべては平等で、互いに妨げ合うことがない。
- 原文
彼身卽是此身。此身卽是彼身。佛身卽是衆生身。衆生身卽是佛身。不同而同不異而異。故三等無礙。
- 解説
- 出典
- 空海(遍照金剛)『即身成佛義』大正蔵 T77n2428
この「別々の存在でありながら、根っこでは二つに分かれていない」というあり方を、真言宗では「而二不二(ににふに)」と呼びます。あなたはあなた、亡くなった人はその人のままでありながら、大日如来の命のなかでずっとつながっています。
ですから、お盆に迎え火を灯して「お帰りなさい」と呼びかけるのは、遠い世界から霊を呼び戻すことではありません。もともと離れていない大切な人へ心を向け、名前を呼んで語りかける行いです。だから、お盆に迎えているのは別人ではなく、あなたが思い浮かべるその人ご自身なのです。
大日如来のひとつの命と「而二不二」而二(姿と個性は別々)
あなたはあなた、亡くなった人はその人のまま。混ざり合って区別が消えることはない
不二(命の根っこは一つ)
雲に隠れた太陽が消えていないように、大日如来の大きな命のなかでずっとつながっている
お盆の迎え火
遠くから霊を呼び戻すのではなく、離れていない大切な人へ心を向け、名前を呼ぶ行い