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読みもの

たくさんの仏さまがいる理由

お寺には、たくさんの仏さまがいます。なぜ、これほど多いのでしょう。答えは「世界」の数え方にあります。世界を1つと数えるか、無数と数えるか。そのちがいが、仏さまの数にそのまま表れているのです。やさしいところから、順にたどります。

 

  1. お寺は、仏さまでいっぱい
  2. 仏教には、2つの大きな流れがある
  3. 部派も大乗も、ここは同じ
  4. 分かれ目は、「世界」の大きさ
  5. 世界を「1つだけ」と見れば、仏はお一人
  6. 世界を「無数」と見れば、仏さまも無数
  7. そして、すべてをつらぬく仏へ
  8. 日本は、この大乗を受けついだ
  9. 仏の数から、心の奥へ
  10. なぜ、1つの世界にお一人なのか
  11. 答えは、源流から分かちあっていた
  12. いちばん古い層の言葉
  13. 学派の論書から。同じ答え、ちがう「世界」
  14. 華厳から密教へ。すべてをつらぬく仏の言葉
  15. よくあるご質問
  16. 参考文献・出典
はじめに

お寺は、仏さまでいっぱい

お薬師さま、阿弥陀さま、観音さま、お地蔵さま、大日如来。日本のお寺をめぐると、いくつもの仏さまの名に出会います。「仏教は、こんなにたくさんの仏さまを拝むのか」。そう戸惑う方は、少なくありません。

この多さには、はっきりした理由があります。しかも、たった1つの、とてもシンプルな考え方からたどり着けます。それが、これからお話しする「一仏一国土いちぶついっこくど」です。むずかしそうな言葉ですが、中身はやさしい。順を追って、ご一緒にたどりましょう。

その前に

仏教には、2つの大きな流れがある

話に入る前に、言葉を2つだけ覚えてください。仏教には、大きく2つの流れがあります。「部派仏教ぶはぶっきょう」と「大乗仏教だいじょうぶっきょう」です。

お釈迦さまが亡くなって長い年月のあいだに、仏教は大きく2つの流れに分かれていきました。1つ目の部派仏教は、初期の教えに近い形を守って伝える、古い流れです。いまのスリランカ・タイ・ミャンマーに伝わる上座部じょうざぶ仏教が、その代表です。

もう1つの大乗仏教は、少しのちに興おこった流れです。出家した人だけでなく、生きとし生けるすべてを、ともに救おうと大きく願いました。中国や朝鮮半島を経て日本に伝わった仏教は、すべてこの大乗です。私たちがお寺でお参りする仏教も、大乗仏教です。

共通の決まり

部派も大乗も、ここは同じ

1つの世界に、同じ時に、二人の仏さまが現れることはない。

いま見た部派仏教も、大乗仏教も、この決まりだけは、同じように受けついできました。「1つの世界に、仏さまはお一人」。ここは、どちらも変わりません。

では、なぜ仏さまはお一人で足りるのでしょう。昔の人は、これを王さまにたとえました。1つの国には、王さまが一人いれば国は治まります。もし二人が同時に立てば、どちらに従えばよいか分からず、かえって争いのもとになる。仏さまも同じで、1つの世界を導くには、お一人で十分なのだと考えたのです。

分かれ目

分かれ目は、「世界」の大きさ

決まりは同じでも、ここから仏教は、大きく2つに分かれます。分かれ目は、たった1つ。世界はこの1つだけと見るか、それとも、無数にあると見るか、です。

「1つの世界に、仏さまはお一人」。変わるのは、世界をいくつと数えるか。1つと数えれば、仏さまはお一人。無数と数えれば、そのひとつひとつに仏さまがいて、仏さまも無数になります。

同じ1つの決まりを、世界の数で裏返しただけ。それだけのことが、お釈迦さまお一人を仰ぐ仏教と、阿弥陀さま・お薬師さまをはじめ、数えきれない仏さまを仰ぐ仏教とを、分けました。その2つを、順に見ていきます。

世界の数で、仏教は分かれる

共通の決まり:1つの世界に、仏さまはお一人
↓
部派仏教世界は「この1つだけ」↓仏は、お釈迦さま お一人
大乗仏教世界は「無数」↓仏も、無数阿弥陀・薬師・阿閦 など
「1つの世界に、仏さまはお一人」という決まりは、どちらも同じ。ちがうのは、世界を1つと数えるか、無数と数えるか、だけです。
ひとつ目の見方

世界を「1つだけ」と見れば、仏はお一人

古くからの部派仏教は、世界を「この1つだけ」と見ました。

いまこの世におられる仏さまは、お釈迦さまただお一人。ほかの世界に仏さまがおられるとは、説きません。お釈迦さまは、2500年ほど前、インドに実際にお生まれになり、さとりを開かれた歴史上の人物です。その教えをひたすら受けついでいく。すっきりと厳格な、一仏の仏教です。

「1つの世界」は、小さな場所のことではありません。中央に須弥山しゅみせんがそびえ、まわりを大陸と海がめぐる小さな世界を、千倍、また千倍、さらに千倍と三度かさねた、三千大千世界さんぜんだいせんせかい。小さな世界10億個ぶんです。

この三千大千世界ぜんたいが、お一人の仏さまの国土です。10億の小さな世界をまとめて、ひとつの国とみなし、一仏刹いちぶっせつと数えます。

私たちの住む、この三千大千世界を、娑婆しゃば世界といいます。その教主きょうしゅ、すなわち世界を導く仏さまが、お釈迦さまです。世界が小さいからお一人なのではありません。これほど大きな世界ぜんたいを、お釈迦さまお一人で受けもっておられる。これが「1つの世界に、仏さまはお一人」の意味です。

この見方は、部派の文献も同じです。南に伝わった上座部は『論事ろんじ』で、北で栄えた説一切有部は『順正理論じゅんしょうりろん』で、「いま、ほかの世界にも仏さまがおられる」という説を、はっきり退けます。世界はこの1つだけ。だから、いまの仏さまも、お釈迦さまお一人。理屈が、きれいに通っています。

「1つの世界」の大きさ

小さな世界を1000倍し、また1000倍、さらに1000倍。

須弥山しゅみせん世界1つ(基本の単位)
1000倍 ↓
小千しょうせん世界須弥山世界 1,000個
1000倍 ↓
中千ちゅうせん世界須弥山世界 100万個
1000倍 ↓
大千世界 = 三千大千さんぜんだいせん世界須弥山世界 10億個= 娑婆しゃば世界 = 一仏刹いちぶっせつ(1つの仏の国土)
↓
この大きな1つの世界の教主きょうしゅ:お釈迦さま お一人
「三千大千世界」とは、千を三度かさねた(小千・中千・大千)という意味。須弥山世界 10億個ぶんの大きさです。これだけ大きくても、ばらばらの10億個ではなく、まるごと1つの国(娑婆世界)。その教主が、お釈迦さまお一人です。
ふたつ目の見方

世界を「無数」と見れば、仏さまも無数

大乗仏教は、世界を「数えきれないほどあって、そのうちの1つ」と見ました。

夜空の星の数ほど、いえ、それよりもっとたくさんの世界がある。そのひとつひとつが、それぞれ三千大千世界の大きさをもち、それぞれの仏さまがおられます。私たちの住む娑婆しゃば世界には、お釈迦さまお一人。西のかなたの極楽ごくらくには阿弥陀さま、東のかなたの浄瑠璃じょうるりにはお薬師さまが、いま、現におられる。そう考えたのです。

ここで、はじめの疑問に答えが出ます。お寺には、なぜこんなにたくさんの仏さまがおられるのか。日本のお寺で出会う仏さまは、もともとそれぞれ、別の世界の主です。阿弥陀さまは極楽、お薬師さまは浄瑠璃、阿閦あしゅくさまは東方の妙喜みょうき世界の仏さま。世界がちがうので、同時におられても、少しも矛盾しません。

では、なぜその別世界の仏さまを、この娑婆のお寺でお参りできるのでしょう。ほかの世界の仏さまが、この世界の人びとを救うために、仮のお姿をとって、この世にあらわれてくださるからです(示現じげんといいます)。だからこそ、別の世界の主でありながら、阿弥陀さまもお薬師さまも、いま、私たちの目の前のご本尊としてはたらいてくださいます。お寺の仏さまの多さは、無数の世界の仏さまが、この1つの世界へ手をのべてくださっている、そのあらわれなのです。

大乗の経典は、この無数の仏さまを、いきいきと描きます。『無量寿経』の極楽、『薬師経』の浄瑠璃、『法華経ほけきょう』の永遠のお釈迦さま。

さらにその先へ

そして、すべてをつらぬく仏へ

「世界は無数」という見方は、やがて、もう一歩先へ進みます。

無数の世界に、無数の仏さま。ならば、そのすべてをつらぬいて、いっぱいにゆきわたる、一つの仏さまがおられるのではないか。こうして大きく描かれたのが、『華厳経けごんきょう』の毘盧遮那仏びるしゃなぶつです。盧舎那仏るしゃなぶつともいい、奈良の東大寺の大仏さまが、この仏さまにあたります。あまねく照らす光のように、数えきれない世界のすべてを、お身体からだとする仏さま、と説かれます。

この仏さまの世界は、実際に目で見ることができます。さきほどの奈良・東大寺の大仏さま(盧舎那仏)の台座だいざです。大仏さまが坐ざす、大きな蓮はすの花。その花びらの一枚一枚に、毛彫りけぼりで、須弥山しゅみせんや天界が描き込まれています。これが、『梵網経ぼんもうきょう』の説く世界の絵そのものです。経はこう説きます。花びらの一枚一枚が、それぞれ一つの世界。その一つずつに、お釈迦さまがあらわれて仏になる(「一花百億国、一国一釈迦」)。1つの世界にお一人、という決まりは、ここでもそのまま。そして、その数えきれない釈迦は、みな盧舎那仏お一人のお身体(「盧舎那本身るしゃなほんじん」)なのです。無数の世界をぜんぶ束ねた、一枚の蓮の花。その主が、盧舎那仏です。

この盧舎那仏を、密教はさらに深めて、大日如来だいにちにょらいと呼びます。「大日」とは「大いなる毘盧遮那」、すなわち摩訶毘盧遮那まかびるしゃなのことです。大日如来は、「1つの世界にお一人」という決まりの外側にいる特別な仏さまではありません。その決まりを、あらゆる世界の全体という、いちばん大きな世界にまで広げたときの、その一仏です。あらゆる処ところ、あらゆる時に満ちて、たえず教えを説きつづける。世界のすべて、すなわち法界ほうかいそのものを、お身体とする仏さまなのです。

ですから、目の前のお釈迦さまと、大日如来とは、別々の仏さまではありません。『観普賢経かんふげんぎょう』は「釈迦牟尼を毘盧遮那と名づけ、あらゆる処に遍あまねし」と説きます。法界に満ちる、まことのお身体を、法身ほっしんといいます。その法身が大日如来。その大日如来が、私たちの世界に応じて示してくださったお姿、すなわち応身おうじんが、お釈迦さまです。同じ仏さまの、2つの見えかたです。これは真言宗が新しく作り出した考えでもありません。華厳の、世界のすべてをつらぬく盧舎那仏を、お大師さまが、自ら教えを説く法身の仏として受けとめなおしたのです。

「1つの世界」をどこまでと見るか

部派
この1つだけ(娑婆)
→お釈迦さま お一人
大乗
無数にある、そのうちの1つ
→十方の、無数の仏
阿弥陀・薬師・阿閦 など
密教・華厳
すべてをまるごと1つ(法界)
→大日如来(法身)お一人
無数の仏を、一身に内包する
「1つの世界に、仏さまはお一人」という決まりは変わりません。変わるのは、どこまでを「1つの世界」と見るか。その見かたの大きさが、お釈迦さま・十方の諸仏・大日如来を、それぞれに生み分けます。大日如来は、十方の無数の仏を押しのけるのではなく、そのすべてを一身におさめる仏さまです。
日本の仏教

日本は、この大乗を受けついだ

日本に伝わったのは、この大乗仏教でした。だから、日本のお寺は、仏さまでいっぱいなのです。

阿弥陀さま、お薬師さま、大日如来、歴史のお釈迦さま。これらが1つの伽藍がらんにともにおまつりされていても、矛盾しません。日本の仏教は、「世界の数だけ仏さまがいる」という大乗の見方の上に立っているからです。はじめに戸惑った「仏さまの多さ」は、この広やかな世界観のあらわれだったのです。

四国八十八ヶ所をめぐると、札所ごとに本尊はさまざまです。薬師如来、大日如来、観音さま、お地蔵さま……。そのひとつひとつにお参りすることが、そのまま「世界の数だけ仏さまがいる」という、この広やかな世界観の中を歩くことでもあります。

平等寺は、高野山真言宗のお寺であり、四国八十八ヶ所の第二十二番札所でもあります。真言宗は、すべての世界にゆきわたる大日如来を、いっさいの仏さまの源、すべての徳をひとつに兼ねそなえた全体(普門総体ふもんそうたいといいます)として仰ぎます。そのうえで、本尊には、その全体のうちの1つの徳をあらわす仏(一門別得いちもんべっとく)として、東方浄瑠璃のお薬師さまをおまつりしています。

さらにお大師さま(弘法大師空海)は、即身成仏そくしんじょうぶつを説きます。仏さまは、はるか遠くの別世界にだけおられるのではありません。私たち一人ひとりが、もとから大日如来とひとつにつながっていて、手を合わせ、真言しんごんをとなえ、心を仏さまに向ける行い(三密さんみつ)のなかで、この身のままで、仏さまのいのちに触れていく。そう説かれるのです。

平等寺の本尊 お薬師さま(紹介)きゅうり加持とは(三密加持・即身成仏のお話)
むすび

仏の数から、心の奥へ

無数の世界に、無数の仏さま。その問いは、やがて「私の心の奥に、どのように仏さまを見いだすか」という、お一人おひとりの歩みへと形を変えていきます。ここまでが本編です。ここからは、原典の言葉でさらに確かめたい方へ。

「仏さまは何人か」という問いは、やがて「私の心の奥に、どのように仏さまを見いだすか」へと、深まっていく。

深掘り①

なぜ、1つの世界にお一人なのか

ここからは、もう少し深く知りたい方へ。まず「なぜお一人で足りるのか」。後の世の学僧たちは、その理由を、4つに整理しています。

その一

お一人で十分だから

ひとつの世界は、一人の仏さまが、すべての人を導くのに足りています。だから二人目はいりません。

その二

仏さまご自身の願いから

仏になる前の修行のとき、「ほかに導き手のいない世界をえらんで、私がよりどころになろう」と願を立てられたからです。だから、すでに仏さまのいる世界に、重ねて出ることはありません。

その三

ありがたみが薄れないように

お一人だからこそ、人は「めったにお会いできない、尊い方だ」と、深く敬う心を起こします。

その四

今すぐ励もうと思えるように

出会いがまれだと知ればこそ、人は「いま、教えに励もう」と思い立ちます。

補足

4つの理由は、どれも「一人で満ち足りている」という一点に帰ります。では、もしもう一人、仏になれるほどの方がいたら。その方は、この世界で二人目になるのではありません。まだ導き手のいない別の世界へ、人々を救いに向かわれます。だから、どの世界も、ちゃんとお一人の仏さまに見守られるのです。

深掘り②

答えは、源流から分かちあっていた

「1つの世界にお一人」という答えは、ある1つの学派が作り出したものではありません。お釈迦さまに近い時代からあり、のちに分かれたどの部派も、共通して受けついだものです。

もともとこれは、仏さまの智慧を語る言葉の一部でした。「1つの世界に二人の仏さまはありえない」は、仏さまが「道理に合わないこと」と見分けるものの1つに数えられていたのです。これは「仏さまは何人か」という数の話ではありません。仏さまの目に、世界の筋道がどう映っているか、という話でした。

この言い方は、お釈迦さまの時代に近い、とても古い経典にまでさかのぼります。スリランカや東南アジアに伝わったパーリ語の経典にも、漢文に訳された『中阿含経ちゅうあごんきょう』の「多界経たかいきょう」にも、ほとんど同じ文句で残っています。部派が分かれるよりも前から、仏教ぜんたいで分かちあっていた、古くて確かな答えなのです。だからこそ、分かれたのは答えではなく、すでに見たとおり「世界の大きさ」の一点だけでした。

原典(一)

いちばん古い層の言葉

ここからは、もっと深く知りたい方のために、もとの経典の言葉を、ひとつずつ添えていきます。この教えは、パーリ語・梵語(サンスクリット)・漢文・チベット語という、4つの言葉の経典で、言いまわしまで、ほぼ同じ文句で残っていることが確かめられます。まずは、いちばん古い層から。

パーリ語『増支部』『分別論』

日本語訳
これは、道理に非ず、余地もないことである。すなわち、ひとつの世界に、二人の阿羅漢あらかん・正等覚者しょうとうがくしゃ(=仏さま)が、前後せず同時に現れる、ということ。そのような道理は、存在しない。
原文
aṭṭhānam etaṃ anavakāso yaṃ ekissā lokadhātuyā dve arahanto sammāsambuddhā apubbaṃ acarimaṃ uppajjeyyuṃ, netaṃ ṭhānaṃ vijjati.
解説
パーリ語は、お釈迦さまの教えをもっとも古いかたちで伝える言葉です。「処しょに非ず、余地なし」という、ありえないことを示す決まり文句で説かれます。
出典
南に伝わったパーリ語『増支部ぞうしぶ』一集/『分別論ふんべつろん』。仏の十の力の第一として説かれます。

漢訳『中阿含経』「多界経」

日本語訳
アーナンダよ、もしひとつの世のなかに、二人の転輪王てんりんおう(=理想の王)が並んで治めることがあれば、それは終に、道理に合わない。アーナンダよ、もしひとつの世のなかに、二人の如来にょらい(=仏さま)がいることがあれば、それも終に、道理に合わない。
原文
阿難、若世中有二轉輪王並治者、終無是處。阿難、若世中有二如來者、終無是處。
解説
仏さまと、世を治める王さまとを、まったく同じ理屈で「二人は並ばない」と並べています。これが、この教えのもともとの形です。
出典
瞿曇僧伽提婆くどんそうぎゃだいば訳『中阿含経』「多界経」(大正蔵 No.26)。

漢訳『長阿含経』「典尊経」

日本語訳
私は、仏さまから直に聞き、じかに受けたまわりました。同じときに、二人の仏さまが世にお出ましになる、ということは、ありえないのです。
原文
我從佛聞、親從佛受、欲使一時二佛出世、無有是處。
解説
天の神々が「二人、いや八人の仏さまが出れば、もっとよいのに」と願ったのに対し、帝釈天たいしゃくてんが、仏さまから聞いた言葉として、こう答えます。法蔵部ほうぞうぶに伝わった経のことばです。
出典
仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』「典尊経」(大正蔵 No.1)。

『ミリンダ王の問い』

日本語訳
〔ミリンダ王が問う〕「どういう理由わけで、二人の如来にょらい(=仏さま)は、同じ時にはお出ましにならないのですか」。〔長老ナーガセーナが答える〕「大王よ、この1万世界いちまんせかいは、ただお一人の仏さまだけを保たもつもの。お一人の如来の徳だけを保ちます。もし二人目の仏さまが現れたなら、この1万世界はもう保ちきれず、ゆれ、ふるえ、かたむき、たわみ、くずれ、ばらばらに砕くだけ散ちって、立ちゆかないでしょう」。
原文
Kena kāraṇena dve tathāgatā ekakkhaṇe nuppajjanti? Ayaṃ, mahārāja, dasasahassī lokadhātu ekabuddhadhāraṇī, ekasseva tathāgatassa guṇaṃ dhāreti. Yadi dutiyo buddho uppajjeyya, nāyaṃ dasasahassī lokadhātu dhāreyya, caleyya kampeyya nameyya onameyya vinameyya vikireyya vidhameyya viddhaṃseyya, na ṭhānamupagaccheyya.
解説
ここでは、本文の三千大千世界とは別の尺度の数が出てきますが、矛盾ではありません。これは、仏さまがお生まれになる範囲の話です。ギリシア人の王ミリンダの問いに、長老ナーガセーナが答えます。その答えが「世界の大きさ」をそのまま口にしているのが、目を引きます。ここでいう1つの世界とは、須弥山しゅみせん世界を1万あつめた『1万世界』のこと。ちょうどその大きさが、お一人の仏さまの徳でいっぱいになると説きます。仏さまの世界の大きさには尺度がいくつかあり、お生まれになる範囲をこの1万世界、威光の及ぶ範囲を、さらに大きく三千大千世界さんぜんだいせんせかいと説き分けることもあります。
出典
『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハ)』、二人の仏さまが同時に現れない理由を問う章。紀元前後の、ギリシア人の王と長老ナーガセーナの問答集です。

一仏の国土は、三千大千世界 漢訳『長阿含経』世記経

日本語訳
1つの中千世界、その中千世界を千あつめたものが、三千大千世界である。このような世界が、ぐるりと、成り立っては滅びる。その、生きとし生けるものの住むところを、一仏刹いちぶっせつ(=一人の仏さまの国土)と名づける。
原文
如一中千世界、爾所中千千世界、是為三千大千世界。如是世界周匝成敗、眾生所居名一佛剎。
解説
一人の仏さまの国土は、けっして小さなものではありません。須弥山しゅみせん世界を10億あつめた、三千大千世界の全体。これが「1つの世界」の大きさで、部派も大乗も、ここは同じです。
出典
仏陀耶舎ぶっだやしゃ・竺仏念じくぶつねん訳『長阿含経』「世記経せききょう」(大正蔵 No.1)。
原典(二)

学派の論書から。同じ答え、ちがう「世界」

つづいて、流派ごとの論書です。同じ教えが、それぞれの言葉で理由づけられ、やがて「世界の広さ」をめぐって、上座部・説一切有部と、大乗とが分かれていきます。

まず、北で栄えた流派が、「なぜ二人の仏さまは同時に出ないのか」を、理由を挙げて整理しました。

『施設論』因施設門

日本語訳
また問う。どういう因によって、二人の仏さま(如来・応供・正等正覚)は、同時に出ないのか。答える。仏になる方(菩薩)は、はるかな過去から因を積むこと広大で、長いあいだ、ただ一人の師の教え、一すじの修行によって、もろもろの善い行いをなし、そのなすところはすべて、同一のさとり、唯一のとうとい方、唯一の大いなる智慧に向かう。そうして善い行いを積み、長く育て、熟させても、ひとつの時に、2つの結果(成仏)が同時に現れて起こることはない。これはどういうことか。答える。2つの、この上なく難しいこと(成仏)が、同時に並ぶことはないからである。この因によって、ひとつの時に、二人の仏さまは同時に出世しないのである。
原文
又問、何因二佛如來・應供・正等正覺不同時出。答、菩薩往昔修因其事廣大、謂於長時、唯一師教・一種修習、作諸善法、隨其所作同一解脱・唯一所尊・唯一大智。作諸善業、長養成熟、於一時中無二果報現前所起。此復云何。答、二難並故。以是因故、於一時中二佛如來・應供・正等正覺不同出世。
解説
「なぜ二人の仏さまは同時に出ないのか」を、理由を挙げて整理した、いちばん元の論書です。仏になるための、はるかな修行の積み重ねが、同時に2つ実ることはないと説きます。
出典
『阿毘達磨施設論あびだつませせつろん』因施設門(大正蔵 No.1538)。

『倶舎論』世間品

日本語訳
では、なぜひとつの世界に、二人の仏さまが同時に出現しないのか。1つに、無用だからである。ひとつの世界に一人の仏さまがあれば、すべての人をうるおすのに足りる。2つに、願いの力による。仏さまがたは、まだ菩薩であったとき、まず誓いを立てられた。「救いも依りどころもない、暗く盲めしいた世界で、私がさとりを成し、すべての生きとし生けるものを利益し安らかにし、その救い・依りどころ・眼・導き手となろう」と。3つに、深く敬わせるためである。ひとつの世界にただ一人の仏さまがあればこそ、人は深く敬う。4つに、速やかに励ませるためである。「すべてを知る尊い方には、まことに出会いがたい。その教えは速やかに修行すべきだ。仏さまが亡くなられたり、ほかへ行かれたりすれば、私たちは救いも依りどころも失う」と、こう知らせるためである。ゆえに、ひとつの世界に二人の仏さまは現れない。
原文
若爾、何故一世界中無二如來俱時出現。以無用故、謂一界中一佛、足能饒益一切。又願力故、謂諸如來爲菩薩時先發誓願、願我當在無救無依盲闇界中成等正覺、利益安樂一切有情、爲救爲依爲眼爲導。又令敬重故、謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故、謂令如是知一切智尊甚爲難遇、彼所立教應速修行、勿般涅槃或往餘處、便令我等無救無依。故一界中無二佛現。
解説
本文で挙げた「4つの理由(無用・願力・敬重・速行)」の、もとになった文です。どれも「一人で満ち足りている」という、ひとつの心から説かれています。
出典
世親せしん造・玄奘げんじょう訳『阿毘達磨倶舎論くしゃろん』世間品(大正蔵 No.1558)。

チベット語訳『倶舎論』

日本語訳
二人の仏さまが、前後なく(=同時に)世に現れること。これは、処ところに非ず、その余地もない。
原文
sangs rgyas gnyis snga phyi med par 'jig rten du 'byung ba ni gnas ma yin zhing go skabs med de.
解説
同じ『倶舎論』のチベット語訳です。『倶舎論』は、日本でもチベットでも、僧侶が学びの土台とする基本の論書。この教えが、東アジアからチベットまで、仏教を学ぶ人の基礎に、共通して置かれてきたことが分かります。
出典
チベット語訳『倶舎論』釈(デルゲ版テンギュル Toh 4090)。

大衆部系の律『大事』

日本語訳
〔大迦葉だいかしょうが問う〕「仏子ぶっしよ、どういう因いん、どういう縁えんによって、ひとつの国土こくどに、二人の正等覚者しょうとうがくしゃ(=仏さま)が生じないのですか」。〔大迦旃延だいかせんねんが偈うたで答える〕「人のなかの龍りゅう(=仏さま)がなしとげるべき、この上なく難むずかしい仏の御業みわざ。それを、ことごとく満みたし果はたされる。これが仏さまの本性ほんしょうです。もし、眼まなこある方(=仏さま)に、仏の徳として足たりないところがあるのなら、そのときこそ、二人の偉えらい如来にょらいがお出ましになるでしょう。けれども、大いなる聖者せいじゃに、その足りなさはありません。だからこそ、二人の人中にんちゅうの雄おう(=仏さま)が、ひとつの国土に生まれることはないのです」。
原文
Ko hetuḥ kaḥ pratyayaḥ yaṃ ekasmiṃ kṣetre dvau samyaksaṃbuddhau nopapadyanti? Yat kāryaṃ naranāgena buddhakarma suduḥkaraṃ, tat sarvaṃ paripūreti eṣā buddhāna dharmatā. Asamartho yadi siyād buddhadharmeṣu cakṣumāṃ, tato duve mahātmānau utpadyete tathāgatau. Taṃ cāsamarthasadbhāvaṃ varjayanti maharṣiṇāṃ, tasmāt duve na jāyante ekakṣetre nararṣabhau.
解説
大迦葉だいかしょうの問いに、大迦旃延だいかせんねんが偈うたで答えます。理由はこうです。仏さまは、なすべき仏の御業みわざを、お一人ですべて果たしてしまわれる。だから、足りないところを補おぎなうための二人目はいりません。二人目が要るのは、最初の仏さまに足りなさがあるときだけ。けれども、仏さまにその足りなさはない。ゆえに、ひとつの国土に二人は生まれないと説きます。説一切有部とはまた別の流派、大衆部系だいしゅぶけいの律りつにも、同じ教えが伝わっていることが分かります。
出典
梵語『大事(マハーヴァストゥ)』(大衆部・説出世部(だいしゅぶ・せっしゅっせぶ)の律蔵、Senart 校訂本 第一巻)。

【「1つだけ」と見る側】他の世界の仏を退ける パーリ『論事』

日本語訳
〔問い手(上座部)〕「あらゆる方角の世界に、仏さまがおられるのですね?」〔答え手(大衆部)〕「はい、おられます」。〔問い手〕「では、東の方角に、仏さまがおられますか?」〔答え手〕「いえ、そうとは言いきれません」。…〔南・西・北なども、同じ問答がくり返される〕…〔問い手〕「もう一度うかがいます。東の方角に、仏さまはおられますか?」〔答え手〕「はい、おられます」。〔問い手〕「では、その仏さまのお名前は? ご生まれは? ご一族は? 父母のお名前は? 二人の高弟は? お付きの侍者は? どんな衣、どんな鉢を? どの村、町、都、国、地方に?」〔答え手〕「……いえ、何ひとつ、お答えできません」。
原文
Sabbā disā buddhā tiṭṭhantīti? Āmantā. Puratthimāya disāya buddho tiṭṭhatīti? Na hevaṃ vattabbe …pe… puratthimāya disāya buddho tiṭṭhatīti? Āmantā. Kinnāmo so bhagavā, kiṃjacco, kiṃgotto, kinnāmā tassa bhagavato mātāpitaro, kinnāmaṃ tassa bhagavato sāvakayugaṃ, konāmo tassa bhagavato upaṭṭhāko, kīdisaṃ cīvaraṃ dhāreti, kīdisaṃ pattaṃ dhāreti, katarasmiṃ gāme vā nigame vā nagare vā raṭṭhe vā janapade vāti? Na hevaṃ vattabbe.
解説
世界を「1つだけ」と見る上座部が、「いま、あらゆる方角の世界に仏さまがおられる」と説く大衆部だいしゅぶを、問いつめる場面です。上座部はこう迫ります。「あちこちに仏がおられるというなら、その一人を、お名前でも、ご両親でも、お住まいでも、何か1つ挙げてみなさい」。すると相手は、何ひとつ答えられない。名も素姓も居どころも示せないなら、その「おられる」は、ことばだけ。こうして、ほかの世界の仏さまを認める説を、しりぞけます。世界を「1つだけ」と見る側の、もっとも厳しい立場です。
出典
パーリ『論事ろんじ』「一切方論いっさいほうろん」。

【「無数」と見る側】他の世界に仏はおられる 『大智度論』

日本語訳
仏さまが説かれたのは、「ひとつの三千大千世界さんぜんだいせんせかい(=ひとつの大きな世界)の中に、同じ時に二人の仏さまは出ない」ということであって、十方じっぽう(=あらゆる方角)の世界に、いま仏さまがおられない、という意味ではない。
原文
佛說一三千大千世界中無一時二佛出、非謂十方世界無現在佛也。
解説
「1つだけ」と見る側とちょうど反対に、いま、ほかの世界に仏さまがおられることを、はっきり認めます。阿弥陀さまやお薬師さまが、いま別の世界におられる、という考え方の、よりどころです。
出典
龍樹りゅうじゅ造・鳩摩羅什くまらじゅう訳『大智度論だいちどろん』(大正蔵 No.1509)。

【「無数」と見る側】1つの仏の世界に一人 『瑜伽師地論』

日本語訳
ひとつの仏さまの世界の中に、二人の仏さまが同時に出世することは、決してない。
原文
決定無有一佛土中、有二如來俱時出世。
解説
この論は、「ほかの世界では、たくさんの修行者が同時に仏になる」ことを前提としたうえで、ひとつの世界にはお一人、と説きます。同じ決まりを、無数の世界の側から読んでいます。
出典
弥勒みろく説・玄奘訳『瑜伽師地論ゆがしじろん』(大正蔵 No.1579)。
補足

見くらべると、決まりはどれも同じ。「1つの世界に、仏さまはお一人」。その「1つの世界」の大きさも、部派も大乗も、須弥山しゅみせん世界を10億あつめた三千大千世界さんぜんだいせんせかい=一仏刹いちぶっせつ=娑婆しゃば世界=この私たちの世界で共通しています。ちがうのはただ一点、その世界を「この1つだけ」と見るか、「無数にある、そのうちの1つ」と見るか。阿弥陀さまやお薬師さまを仰ぐ私たちは、後の、大乗の道の上にいます。

原典(三)

華厳から密教へ。すべてをつらぬく仏の言葉

最後に、大乗の、ひろがりゆく仏さまのとらえ方から、毘盧遮那仏・大日如来へとつながる、原典の言葉です。

『華厳経』毘盧遮那仏

日本語訳
(毘盧遮那仏の)ひとつひとつの毛あなの中に、数えきれない世界の塵の数ほどの仏さまが坐し、菩薩がたの集まりがともに取り囲んで、普賢ふげんのすぐれた行いを説いておられる。
原文
一一毛孔中、一切剎塵諸佛坐、菩薩眾會共圍遶、演説普賢之勝行。
解説
ひとつの小さなところに、すべての世界がそっくりおさまる。1つがそのまま全体である、という華厳の世界観です。毘盧遮那仏は、ひとつの世界の一人ではなく、あらゆる世界をつらぬく仏さまとして描かれます。
出典
『大方広仏華厳経だいほうこうぶつけごんきょう』(大正蔵 No.279)。

あらゆる仏は、ただ1つの法身 『華厳経』菩薩問明品

日本語訳
法王ほうおう(=仏さま)は、ただ1つの法。いっさいの、さわりなき方(仏さま)は、1つの道によって、生き死にを出る。あらゆる仏のお身体は、ただ1つの法身ほっしん。1つの心、1つの智慧、十力じゅうりきも無畏むいも、また同じ。〔中略〕あらゆる仏の国土は、荘厳しょうごんがことごとく円かに満ちている。ただ、生きものの行いがちがうのに応じて、こうして、ちがって見えるだけなのだ。
原文
法王唯一法、一切無礙人、一道出生死。一切諸佛身、唯是一法身、一心一智慧、力無畏亦然。(中略)一切諸佛剎、莊嚴悉圓滿、隨眾生行異、如是見不同。
解説
華厳経が立てる問いは、この記事の問いとそっくりです。仏さまは1つの道でさとるのに、なぜ、世界も寿命も説法もちがう、たくさんの仏の国土が見えるのか。答えは、「あらゆる仏のお身体は、ただ1つの法身」。仏さまはもとは1つの法身で、たくさんに見えるのは、それを受けとる私たちの側がちがうからだと説きます。
出典
唐・実叉難陀じっしゃなんだ訳『大方広仏華厳経(八十華厳)』「菩薩問明品ぼさつもんみょうほん」(大正蔵 No.279)。同じ偈は六十華厳(No.278)にもある。

盧舍那の法身は、一切の世界に満ちる 『華厳経』盧舍那仏品

日本語訳
盧舍那仏るしゃなぶつの神力じんりきによって、いっさいの国土の中で、法輪ほうりんが転じられる。〔中略〕法身ほっしんは、堅固で、こわれることなく、いっさいの法界ほうかいに満ちている。あまねく、さまざまなお姿(色身しきしん)を示しあらわして、衆生しゅじょうを、それぞれに応じて導く。
原文
盧舍那佛神力故、一切剎中轉法輪(中略)法身堅固不可壞、充滿一切諸法界、普能示現諸色身、隨應化導諸群生。
解説
旧訳の『華厳経』は、毘盧遮那を「盧舍那るしゃな(ビルシャナ)」と呼びます。その法身は、こわれることなく、あらゆる世界・あらゆる法界に満ちる。そして、その1つの法身が、あまねく「さまざまなお姿」を示して、めいめいの衆生を導くと説きます。つまり、無数の仏さまは、この一つの法身がお姿をあらわしたもの、という見方です。
出典
東晋・仏馱跋陀羅ぶっだばっだら訳『大方広仏華厳経(六十華厳)』「盧舍那仏品るしゃなぶっぽん」(大正蔵 No.278)。

一国に一釈迦、すべては盧舍那の身 『梵網経』

日本語訳
私は、いま盧舍那るしゃな(=毘盧遮那)。大きな蓮はすの花の台に坐している。台のまわりには千の花びらがあり、その上に千の釈迦があらわれる。さらに細かく見れば、花びら一枚に百億の国があり、その一国ごとに、一人の釈迦。千の花びら かける 百億の国で、合わせて千百億の釈迦が、みな菩提樹ぼだいじゅの下で、いちどきに仏となる。この千百億の釈迦は、すべて盧舍那 ただ一仏の、お身体そのもの(本身ほんじん)である。
原文
我今盧舍那、方坐蓮花臺、周匝千花上、復現千釋迦。一花百億國、一國一釋迦、各坐菩提樹、一時成佛道。如是千百億、盧舍那本身。
解説
「一国に一釈迦」。1つの世界にお一人、という決まりが、ここにそのまま出ています。そして、その数えきれない釈迦は、みな盧舍那お一人のお身体。無数の世界を一枚の蓮の花として束ねた、その主が盧舍那です。この一枚の絵に、「一国に一釈迦」と、すべてが盧舍那お一人だという二つの見方が、同時にそろっています。
出典
後秦・鳩摩羅什くまらじゅう訳『梵網経ぼんもうきょう』「盧舍那仏説菩薩心地戒品」(大正蔵 No.1484)。

永遠の仏 『法華経』如来寿量品

日本語訳
私が、まことに仏となってから、すでに、量りきれず果てしない、百千万億・那由他なゆたという、長い長い時が過ぎている。
原文
我實成佛已來、無量無邊百千萬億那由他劫。
解説
お釈迦さまは、この世で初めて仏になったように見えて、はるかな昔からずっと仏でありつづけていると説きます(久遠実成くおんじつじょう)。歴史のお姿をこえた、時をつらぬく仏さまの姿が、ここにあらわれます。
出典
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』「如来寿量品にょらいじゅりょうほん」(大正蔵 No.262)。

釈迦は、あまねき毘盧遮那 『観普賢経』

日本語訳
釈迦牟尼しゃかむにを、毘盧遮那びるしゃなと名づける。あらゆる処に、あまねく満ちておられる。その仏さまのおられる処を、常寂光じょうじゃっこう(=つねに静かな光の国土)と名づける。
原文
釋迦牟尼名毘盧遮那、遍一切處、其佛住處名常寂光。
解説
『観普賢経』は、『法華経』の締めくくりの経(結経けっきょう)として読まれてきたお経です。『法華経』の最後の章で、普賢菩薩ふげんぼさつが、教えを保つ人を守ろうと誓い、白い象に乗って現れます。その続きとして、普賢菩薩を心に観みて、罪を懺悔さんげする行を説くのが、この経です。そのなかで、私たちの世界においでのお釈迦さまは、そのまま、あらゆる処に満ちる毘盧遮那であると説かれます。1つの世界の仏さまと、すべてをつらぬく仏さまとは、別ではありません。歴史のお姿の奥に、法界ほうかいに満ちる仏さまのお身体がある、ということです。
出典
宋・曇無蜜多どんむみった訳『仏説観普賢菩薩行法経かんふげんぼさつぎょうぼうきょう』(大正蔵 No.277)。

化身は多く、法身は一でも二でもない 『金光明経』三身分別品

日本語訳
第一の仏身(化身けしん)は、衆生の心に応じて、多くの相をあらわすので、「多い」と説く。第二の仏身(応身おうじん)は、弟子の1つの心に応じて、1つの相をあらわすので、「1つ」と説く。第三の仏身(法身ほっしん)は、いっさいの相をこえ、相にとらわれる境地ではないので、「一でも二でもない」と説く。〔中略〕法身を離れて、別の仏はない。
原文
是初佛身、隨眾生意有多種故現種種相、是故說多;是第二佛身、弟子一意故現一相、是故說一;是第三佛身、過一切種相、非執相境界、是故說名不一不二。(中略)離於法身、無有別佛。
解説
経みずからが、仏さまのお身体を、数で説き分けます。私たちの前にお姿をとる化身は、衆生に応じて「多い」。法身は、数をこえて「一でも二でもない」。そして、「法身を離れて、別の仏はない」。お寺のたくさんの仏さまも、もとは1つの法身のあらわれだ、という見方が、経の言葉そのものに出ています。
出典
梁・真諦しんだい訳「三身分別品さんじんふんべつほん」。隋・宝貴ほうき編『合部金光明経がっぶこんこうみょうきょう』(大正蔵 No.664)所収。義浄訳『金光明最勝王経』(No.665)「分別三身品」にも同説がある。

一切処・一切時に説く 『大日経』

日本語訳
(大日如来は)あらゆる身のはたらき、あらゆる言葉のはたらき、あらゆる心のはたらきをもって、あらゆる処ところで、あらゆる時に、有情界うじょうかい(=生きとし生けるものの世界)に向けて、真言しんごんの道を説きたまう。
原文
一切身業、一切語業、一切意業、一切處、一切時、於有情界宣説真言道句法。
解説
大日如来は、ある時、ある場所に一度だけ現れる仏さまではありません。あらゆる処で、あらゆる時に、すべての生きものへ、たえず真言の教えを説きつづけておられます。「1つの世界にお一人」という決まりを、あらゆる世界の全体にまで広げたときの、その一仏。法界そのものを、お身体とする仏さまです。
出典
善無畏ぜんむい訳『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』。本文は『大日経疏』巻第一(大正蔵 No.1796)に引く経文による。

法身(ほっしん)の仏が、自ら説く 『弁顕密二教論』

日本語訳
自性身じしょうしん・受用身じゅゆうしん(あらゆる世界に満ちる仏さま)が、自ら法さとりの楽しみを受けるそのままに、その仲間とともに、それぞれ三密さんみつ(身と口と心の門)を説く。これを密教という。
原文
自性・受用佛、自受法樂の故に、自眷屬と與に各おの三密門を説く。之を密教と謂ふ。
解説
ふつう、法身ほっしん(あらゆる世界に満ちる仏さま)は、形もなく、語りもしないとされます。お大師さまはそれに対して、法身である大日如来こそが、自ら教えを説いておられると立てます。これが密教の、いちばんの特色です。
出典
弘法大師空海『弁顕密二教論べんけんみつにきょうろん』(大正蔵 No.2427)。

本地の法身 『大日経疏』

日本語訳
(経にいう)薄伽梵ばがぼん(=世尊・仏さま)とは、すなわち毘盧遮那の、本地法身ほんじほっしんである。次に「如来」というのは、これは仏さまの加持身かじしん(=はたらきとして現れる身)である。その住しておられる所を、仏さまの受用身じゅゆうしんと名づける。
原文
薄伽梵は即ち毘盧遮那の本地法身なり。次に如來と云ふは、是れ佛の加持身なり。其の住する所、佛の受用身と名づく。
解説
毘盧遮那(=大日如来)の、本地法身ほんじほっしんを中心に、仏さまをいくつかの身からだでとらえます。真言宗の、根本の注釈書です。
出典
善無畏ぜんむい説・一行いちぎょう記『大毘盧遮那成仏経疏(大日経疏)』巻第一(大正蔵 No.1796)。

上は大日尊から下は衆生まで、みな一仏のあらわれ 空海『大日経開題』

日本語訳
上は大日尊だいにちそんから、下は六道ろくどうの衆生しゅじょうに至るまで、それぞれの相すがたに住し、さまざまな色相しきそう(=姿かたち)をあらわす。それはみな、大日尊の差別智印さべつちいん(=大日が智慧によって示し分けたしるし)であって、別の身ではない。だから経文に、「我は即ち法界ほうかい、我は即ち金剛身こんごうしん、我は即ち天龍八部てんりゅうはちぶ」などと説かれる。このように、法身ほっしんはたがいに入りあい、ちょうど絹きぬの縦糸たていとと横糸よこいとが結びあって、ばらけず、乱れないようなものだ。これが、経の心である。
原文
上從大日尊、下至六道衆生、相住各各威儀、顯種種色相、並是大日尊之差別智印也、非更他身。故經文云、我即法界、我即金剛身、我即天龍八部等。如是法身、互相渉入、猶如絹布絲縷、竪横相結、不散不亂、是則經之義也。
解説
お大師さまの言葉です。大日如来から、地獄・餓鬼から人・天まで、ありとあらゆる姿は、すべて大日如来お一人が、智慧によって示し分けたお姿であって、「別の身ではない(非更他身ひこうたしん)」。だから経は、大日如来が自ら「我は即ち法界」と名のると説きます。たくさんの仏さまも、私たち衆生も、もとは一仏、大日如来の1つの法身のあらわれ。ここまでたどってきた道の、行きつく先です。
出典
弘法大師空海『大日経開題だいにちきょうかいだい』(大正蔵 No.2211)。

この身のままで仏になる 『即身成仏義』

日本語訳
この世界をかたちづくる6つの要素(六大)は、さまたげなく溶けあい、いつもひとつに結びついている(瑜伽)。仏さまの世界をあらわす四種の曼荼羅も、たがいに離れない。身と口と心の3つのはたらき(三密)が仏さまと響きあえば(加持)、さとりは速やかに現れる。網の目がたがいに映りあう(重重帝網)ように、すべてが1つに通じている。これを即身(このままの身で仏になること)と名づける。
原文
六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼、各おの離れず。三密加持すれば速疾に顕る。重重帝網なるを即身と名づく。
解説
仏さまは、はるか遠くにおられる別の存在ではありません。私たちは、もとから大日如来とひとつにつながっていて、三密の行(手を合わせ、真言をとなえ、心を向ける)によって、この身のままで、仏さまのいのちに触れていけると説きます。
出典
弘法大師空海『即身成仏義そくしんじょうぶつぎ』(大正蔵 No.2428)。

よくあるご質問

参考文献

参考文献・出典

本記事は、高野山真言宗 平等寺 住職 谷口真梁(たにぐち しんりょう)が、次の原典と資料にもとづいて記しました。漢訳経論は大正新脩大藏經(CBETA。空海の撰述は SAT 大正蔵テキストデータベース)、パーリ語は南伝の原典(PTS本)、梵語は校訂本、チベット訳はデルゲ版テンギュルの本文から確認しています。「No.」は大正新脩大藏經の経・論番号、「Toh」はデルゲ版テンギュルの東北大学目録番号です。

漢訳:阿含・初期経典

瞿曇僧伽提婆くどんそうぎゃだいば訳『中阿含経』「多界経たかいきょう」(大正蔵 No.26)
仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』「典尊経てんそんきょう」(大正蔵 No.1)
仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』「自歓喜経じかんぎきょう」(大正蔵 No.1)
仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』「世記経せききょう」(大正蔵 No.1)

漢訳:部派のアビダルマ(論書)

法護ほうご・惟浄いじょう等訳『阿毘達磨施設論』因施設門(大正蔵 No.1538)
世親せしん造・玄奘げんじょう訳『阿毘達磨倶舎論』世間品(大正蔵 No.1558)
五百大阿羅漢等造・玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』(大正蔵 No.1545)
衆賢しゅげん造・玄奘訳『阿毘達磨順正理論』(大正蔵 No.1562)
尊者大目乾連だいもくけんれん造・玄奘訳『阿毘達磨法蘊足論』(大正蔵 No.1537)
曇摩耶舎どんまやしゃ・曇摩崛多どんまくった訳『舍利弗阿毘曇論』(大正蔵 No.1548)
真諦しんだい訳『仏説立世阿毘曇論りっせあびどんろん』(大正蔵 No.1644。正量部系の世界生成論)

漢訳:大乗の経論

龍樹りゅうじゅ造・鳩摩羅什くまらじゅう訳『大智度論』(大正蔵 No.1509)
弥勒みろく説・玄奘訳『瑜伽師地論』(大正蔵 No.1579)
曇無讖どんむせん訳『大般涅槃経』(北本。大正蔵 No.374)

漢訳:華厳・法華・密教(本文で引いた証文)

実叉難陀訳『大方広仏華厳経(八十華厳)』「世主妙厳品」(大正蔵 No.279)
実叉難陀訳『大方広仏華厳経(八十華厳)』「菩薩問明品」(大正蔵 No.279)
仏馱跋陀羅ぶっだばっだら訳『大方広仏華厳経(六十華厳)』「盧舍那仏品」(大正蔵 No.278)
鳩摩羅什訳『梵網経』「盧舍那仏説菩薩心地戒品」(大正蔵 No.1484)
曇無蜜多どんむみった訳『仏説観普賢菩薩行法経』(大正蔵 No.277)
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』「如来寿量品」(大正蔵 No.262)
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』「見宝塔品」(大正蔵 No.262)
宝貴ほうき編『合部金光明経』「三身分別品」(当該品は真諦訳。大正蔵 No.664)
義浄ぎじょう訳『金光明最勝王経』「分別三身品」(大正蔵 No.665)
善無畏ぜんむい・一行いちぎょう訳『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』住心品(大正蔵 No.848)
善無畏説・一行記『大毘盧遮那成仏経疏(大日経疏)』(大正蔵 No.1796)
弘法大師空海『即身成仏義』(大正蔵 No.2428)
弘法大師空海『弁顕密二教論』(大正蔵 No.2427)
弘法大師空海『大日経開題』(大正蔵 No.2211)

漢訳:本文で言及した、他方の仏の経典

康僧鎧こうそうがい訳『仏説無量寿経』(大正蔵 No.360)
玄奘訳『薬師琉璃光如来本願功徳経(薬師経)』(大正蔵 No.450)
支婁迦讖しるかせん訳『阿閦仏国経あしゅくぶっこくきょう』(大正蔵 No.313)
鳩摩羅什訳『維摩詰所説経(維摩経)』「見阿閦仏品」(大正蔵 No.475)
竺法護じくほうご訳『賢劫経けんごうきょう』(大正蔵 No.425)
曇無讖訳『悲華経ひけきょう』(大正蔵 No.157)

パーリ語(南伝大蔵経・PTS本)

『中部』第115経「多界経」(Majjhima-nikāya 115, Bahudhātuka-sutta)
『増支部』一集(Aṅguttara-nikāya, Ekaka-nipāta)
『分別論』処非処智の章(Vibhaṅga)
『論事』「一切方論」(Kathāvatthu, Sabbadisā-kathā)
『ミリンダ王の問い』「二仏不並出の問い」(Milindapañha, Dvinnaṃ buddhānaṃ anuppajjamānapañho)
Samantapāsādikā(律蔵の註釈。仏の国土を、生処〔jātikkhetta〕・教令〔āṇākkhetta〕・智境〔visayakkhetta〕の三種に分かつ)
『世間施設(Lokapaññatti)』(パーリ語圏に伝わる世界生成論の文献)

梵語(校訂本)

『大事(マハーヴァストゥ)』大衆部・説出世部の律蔵(É. Senart 校訂、全3巻)
Sarvarakṣita『大いなる帰滅の物語(Mahāsaṃvartanīkathā)』(梵語。正量部系の世界生成論。校訂本)

チベット語(デルゲ版テンギュル)

『阿毘達磨倶舎論』および世親自註のチベット訳(Toh 4090)
『施設論』世間施設(Lokaprajñapti, デルゲ版テンギュル Toh 4086)
『施設論』因施設(Kāraṇaprajñapti, デルゲ版テンギュル Toh 4087)
『施設論』業施設(Karmaprajñapti, デルゲ版テンギュル Toh 4088)

二次資料:正量部の世界生成論(岡野潔)

岡野潔(1998)「インド正量部のコスモロジー文献、立世阿毘曇論」『中央学術研究所紀要』第27号、55〜91頁(真諦訳『立世阿毘曇論』の正量部帰属を論証)
岡野潔(1998)Sarvarakṣitas Mahāsaṃvartanīkathā: Ein Sanskrit-Kāvya über die Kosmologie der Sāṃmitīya-Schule des Hīnayāna-Buddhismus(仙台・東北インド・チベット研究会。博士論文)
岡野潔(2003)「インド仏教正量部の終末論について」『哲学年報』第62号
岡野潔(2004)「正量部・犢子部の成立年代について」『西日本宗教学雑誌』第26号、41〜61頁
岡野潔(2004)「正量部の伝承研究(2):『七仏経』の所属学派」(仏教文化遺産研究会 十周年記念論集、173〜196頁)
岡野潔(2006)「正量部の仏伝の伝承研究:『大いなる帰滅の物語』第1章1〜3節の翻訳と研究」『哲學年報』第65号、1〜38頁(DOI 10.15017/6490)
岡野潔(2004)「『大いなる帰滅の物語』第2章4節〜第4章1節と並行資料(Aggañña-sutta 諸本)の翻訳研究」『哲學年報』第63号、1〜110頁(DOI 10.15017/3644)
岡野潔(2007)「『大いなる帰滅の物語』第2章1〜3節に見る世界形成の正量部伝承」『哲学年報』第66号、1〜37頁
岡野潔(2007)「Maitreyavyākaraṇa 類と Mahāsaṃvartanīkathā の関係について」『印度学仏教学会論集』第34号、(99)〜(115)頁
岡野潔(2011)「正量部による宇宙の年代記:Mahāsaṃvartanīkathā の梗概」『印度学仏教学会論集』第38号、1〜19頁
岡野潔(2011)「Mahāsaṃvartanīkathā 最終章」『哲学年報』第70号、1〜41頁
岡野潔「Sarvarakṣita 作 Mahāsaṃvartanīkathā 校定テクスト(1)(2)(3)」『哲学年報』第72号(2013、47〜80頁)・第73号(2014、1〜36頁)・第74号(2015、13〜47頁)
岡野潔「世界史を説く未知の正量部聖典からの引用文テクスト(1)(2)」『哲学年報』第75号(2016、15〜53頁)・第76号(2017、1〜32頁)

二次資料:仏教宇宙論 総説

W. Randolph Kloetzli, Buddhist Cosmology: From Single World System to Pure Land, Motilal Banarsidass, 1983Amazonで探す ↗
Akira Sadakata(定方晟), Buddhist Cosmology: Philosophy and Origins, translated by Gaynor Sekimori, Kōsei Publishing, 1997Amazonで見る ↗
定方晟『須弥山と極楽:仏教の宇宙観』講談社現代新書、1973年Amazonで見る ↗
定方晟『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』ちくま学芸文庫、2023年Amazonで見る ↗
定方晟『インド宇宙誌:宇宙の形状・宇宙の発生』春秋社、1985年Amazonで見る ↗
定方晟『インド宇宙論大全』春秋社、2011年Amazonで見る ↗
定方晟『インド宇宙論大全〈新装版〉』春秋社、2021年Amazonで見る ↗

二次資料:須弥山・三千大千世界・倶舎論「世間品」

山口益・舟橋一哉『倶舎論の原典解明:世間品』法蔵館、1955年Amazonで見る ↗
春日井真英(1980)「須弥山の構造について:その垂直面からの考察」『印度學佛教學研究』第28巻第2号、648〜649頁(DOI 10.4259/ibk.28.648)
春日井真英(1981)「須弥山の構造について II」『印度學佛教學研究』第29巻第1号、130〜131頁(DOI 10.4259/ibk.29.130)
谷口真梁(2009)「『倶舎論』における三千大千世界の構造」『密教文化』第222号、9〜25頁
Jeffrey Kotyk(2021)「漢訳アビダルマにおける宇宙論と『宿曜経』」『対法雑誌』第2号、101〜108頁

二次資料:宇宙論を説く経典・立世阿毘曇論・須弥山説の受容

宮嶋純子(2012)「隋代訳経『起世経』『起世因本経』にみる同時代異訳経典の成立過程」『東アジア文化交渉研究』第5号、239〜252頁
石川海浄(1936)「長阿含世記経の成立に就て」『日本仏教学協会年報』第8号、156〜199頁
林隆夫(2013)「立世阿毘曇論日月行品の研究」『南アジア古典学』第8号、1〜50頁
福田琢(2023)「『立世阿毘曇論』地動品に見る仏教宇宙論の構想」『東海佛教』第68輯、19〜33頁
Kalpakam Sankaranarayan, Lokaprajñapti: A Critical Exposition of Buddhist Cosmology, Somaiya Publications, 2002Amazonで探す ↗
岡田正彦『忘れられた仏教天文学:十九世紀の日本における仏教世界像』ブイツーソリューション、2010年
岡田正彦『忘れられた仏教天文学』法蔵館文庫、2024年Amazonで見る ↗
西村玲(2013)「日本における須弥山論争の展開」『印度學佛教學研究』第61巻第2号、679〜683頁(DOI 10.4259/ibk.61.2_679)
常塚聴(2009)「日本における須弥山説の受容」『現代と親鸞』第17号、23〜52頁

二次資料:仏国土・多仏思想・浄土

藤田宏達『原始浄土思想の研究』岩波書店、1970年Amazonで見る ↗
Jan Nattier, 'The Realm of Akṣobhya: A Missing Piece in the History of Pure Land Buddhism', Journal of the International Association of Buddhist Studies 23-1(2000)pp.71–102
Dar Zhutayev, 'Sacred Topology of the Buddhist Universe: The Buddhakṣetra Concept in the Mahāsāṅghika-Lokottaravādin Tradition', in Sacred Topology of Early Ireland and Ancient India(JIES Monograph Series 57), Institute for the Study of Man, 2010
藤近恵市(2004)「『八千頌般若経』における多仏思想の受容」『佛教文化学会紀要』第13号、62〜85頁(DOI 10.5845/bukkyobunka.2004.62)
Christopher V. Jones, 'First Among Equals? Sakyamuni among Other Buddhas in Mahāyāna Sutra Literature', Buddhist Studies Review 41-1/2(2024)pp.213–231
Rupert Gethin, 'Cosmology and Meditation: From the Aggañña-Sutta to the Mahāyāna', History of Religions 36-3(1997)pp.183–217
Rupert Gethin, 'Mythology as Meditation: From the Mahāsudassana Sutta to the Sukhāvatīvyūha Sūtra', Journal of the Pali Text Society 28(2006)pp.63–112

二次資料:毘盧遮那・法身・華厳の世界海・仏伝・法華

入澤崇(1988)「蓮華蔵世界」『印度學佛教學研究』第36巻第2号、927〜920頁(DOI 10.4259/ibk.36.927)
大竹晋(2013)「華厳経の世界像」下田正弘 編『智慧/世界/ことば』(シリーズ大乗仏教 第4巻、高崎直道 監修)春秋社Amazonで見る ↗
外村中(2015)「『華厳経』の宇宙論と東大寺大仏の意匠について」『日本研究』第51集、21〜40頁(DOI 10.15055/00005567)
木村清孝『華厳経入門』角川ソフィア文庫、KADOKAWAAmazonで見る ↗
平岡聡『ブッダの大いなる物語:梵文『マハーヴァストゥ』全訳』上、大蔵出版、2010年Amazonで見る ↗
平岡聡『ブッダの大いなる物語:梵文『マハーヴァストゥ』全訳』下、大蔵出版、2010年Amazonで見る ↗
平岡聡『法華経成立の新解釈:仏伝として法華経を読み解く』大蔵出版、2012年Amazonで見る ↗

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