什麼是隨喜
看見他人的善行,例如從事志工服務或捐款,也像是自己的善行一樣歡喜。不生嫉妒,真心讚歎,心想:「真令人感恩。」
看見一個人非常歡喜。見到這樣的情景,自己也像遇到喜事一樣,為他感到歡喜,心想:「真好啊。」
在日本,自古以來,親族齊聚參加葬儀或法事、與僧侶一同合掌祈願,也稱為「隨喜」。參列法會、共同祈願,這也是隨喜。
這就是隨喜。
だれかの祈りや布施、努力を目にして、「よかったね」「ありがたいね」とその人に寄り添って喜ぶ。ねたまず、一緒に喜ぶ。その心を仏教では随喜といいます。
見人行善,心喜無妒。
随喜は、だれかの善い行いを見たときに、その人へ心を向けて「よかったね」「ありがたいね」と一緒によろこぶことです。自分がした善でなくても、その善をねたまず、そばで共に喜ぶ。これが随喜という修行です。
もともとはパーリ語・サンスクリット語の anumodanā のことで、接頭辞 anu-(随って)と動詞語根 √mud(喜ぶ)から成り、「相手に寄りそってよろこぶ」という意味になります。自分が主役になる喜びではなく、「だれかの善い行いにしたがって起こる喜び」という意味です。
お釈迦さまの時代から、仏教徒はだれかの善い行いを目にすると「sādhu sādhu(サードゥ、サードゥ)」と声を合わせてきました。中国語ではこれを「善哉、善哉(ぜんざい、ぜんざい)」といい、日本語にすれば「よかったね」「ありがたいね」です。
日本でも、葬儀や法事に親類縁者が集い、僧侶と共に手を合わせることを、古くから「随喜する」といってきました。故人のために営まれる善い行いに、参列というかたちで心を重ねる。法会に参列すること、それ自体が随喜です。
もちろん、随喜は一緒に喜ぶだけで終わるものでもありません。人の善にふれて自分の心が動き、気がつけば自分もまた善い行いをしている。こうやって善い行いの輪が広がっていく。相手の善を喜んでいるうちに、めぐりめぐって自分の心も善に進むようになる。こうなるための修行です。
仏教では善い行いをすると功徳が生まれるといいます。お釈迦さまは、随喜によって功徳は広がっていくと説きます。どういうことでしょうか。
隨喜功德無量無數。
有名なお経の『法華経』に「随喜功徳品」という章があります。そこには、お釈迦さまの教えを聞いて喜んだ人がその喜びを次の人へ伝え、その人がまた次の人へ伝え、最終的に五十人目まで伝わったとあります。お釈迦さまの教えを聞いた喜びが、随喜によって一人から五十人へ広がったということです。
『金光明最勝王経』には「供養の功徳には数と量があるが、随喜の功徳は無量無数である」と説かれています。誰かにものをあげるとき、たとえばお布施をするときには、自分が持っている分以上にはできません。しかし、その善い行いを見て喜ぶ随喜は、何も持っていなくても、誰でも、何人でもできます。お布施は有限ですが、随喜の功徳は無限であるということです。
鎌倉時代の浄土宗第三祖・良忠上人は、『観経疏伝通記』のなかで、お香の喩えによってこれを説明しました。「買香の譬え」といいます。お香を売る人も、買う人も、そばで見ている人も、等しく同じ香りに包まれ、誰でもそのよい香りを味わうことができます。これと同じように、善い行いをする人とそれに随喜する人もまた、ともに同じ功徳を得ることができると説いたのです。
随喜は、日々のふるまいのなかでだれでも行えます。お釈迦さまのことばを学んだら、あとは暮らしのなかで実際に心を向けてみること。身近な人の善い行い、だれかの祈りや親切。それをみて我がことのように喜ぶ。その一つひとつが、随喜の実践になります。
「よかったね」「ありがたいね」
随喜は、大きな修行として構えなくてかまいません。家族が人に親切にしているのを見て「よかったね」と一緒に喜ぶ。ニュースで誰かの善い行いを目にして、そっと「ありがたいね」と心に重ねる。そうした日々のふるまいの積み重ねが、そのまま随喜になります。
布施できる財がなくても、祈りの場に立ち会えなくても、相手の善に心を向ける気持ちがあれば、そこに随喜の功徳が生まれています。
平等寺で随喜する場合は、法会中に今日出会った善いことを1つ思い出してみて、「ありがたいな」と思ってみてください。何も思いつかない場合は、住職と一緒にお祈りする気持ちを持ってみましょう。
習慣として続けていくうちに、自分の心も少しずつ変わっていきます。「うらやましさ」や「ねたみ」という負の感情が起こりにくくなり、人の善を素直に受けとめられるようになる。随喜は、自分の心を整える日々の修行です。
平等寺では、離れた場所からでも法会に参加して善根に心を寄せられるよう、すべての法会でオンライン随喜を受け付けています。
ただライブ配信を見るのではなく、心を合わせて祈る。住職が誰かの祈願を始めたら、同じ心で祈る。震災や豪雨などの被害者の供養を祈っていたら、同じように祈る。このようなあなたの随喜によって、平等寺の法会の功徳は、ますます増していきます。
法会終了後には、その証として、皆が積み上げた功徳をTOKとしてポイント化し、お一人お一人に付与いたします。参加者が増えれば増えるほど、集まるTOKも増える。そうやって、みんなで功徳を増やして、癌封じなどの願いごとがある人のところ、亡くなった方のところへ回向していきましょう。
あなたの随喜が、そのまま誰かへの回向になります。
あなたの随喜、お待ちしています。
よくある問い
ただ「うれしい気分」になれば随喜ですか?
はい。それでかまいません。もし、そのうれしい気分がうれしくて、自分も善いことをしてみようと思ったら、ぜひ実践してみてください。
TOKポイントが目的なのですか?
TOKポイントは、随喜をかたちに残すための目じるしです。随喜の目的は自分の心から「うらやましい」とか「ねたむ」といった気持ちを無くすことです。
正しい作法を知らないです
誰かが行っている善い行いを心から喜んだり、法会を行っている僧侶に気持ちを合わせれば、それだけで随喜です。あえていえば、心の中で「ありがたいね」と思うのが唯一の作法です。
住職のコラム
誰かの善い知らせを聞いたのに、素直に「よかったね」と思えない。そんな日は、誰にでもあります。
隨喜滅嫉妬障。
人の善を喜べない心を、仏教では「嫉妬(しっと)」と呼びます。嫉妬とは、人の喜びや善い行いの前で、自分の心が止まってしまい動けなくなっていることを指します。どうすれば動き出せるのでしょうか。
朝のお勤めでおとなえしているお経によると、随喜は懺悔(さんげ)の後で行うことになっています。
まず、自分の行いを振り返る。それから顔を上げ、人を見る。自分の至らなさを見つめて自分というものを少し柔らかくしてから、誰かの善に目を向けよ、ということです。
幸せは、誰かと取り合うものではありません。誰かが幸せになったからといって、自分の分が減るわけじゃない。あなたが幸せになっても、誰かの幸せを奪ったわけではありません。人の幸せをみて「よかったね」と思えたとき、その幸せは相手のところで止まらず、自分の幸せになります。幸せは無限に増え続けます。
人のことを喜べない日があっても構いません。まずは自分の心をみつめてみて、至らないところがあれば素直に反省する。そして、胸の中に少しざわつきが残っていても、まずは素直に喜べそうな小さなできごとに「ありがたいね」と口に出してみる(例えば、ボタンを押すだけで水が流れて💩が無くなることなど)。そうやって心が言葉に追いつくまで、少し待ってみる。
随喜は、自分の心を善き方向へ向ける修行です。たとえ嫉妬の心が芽生えても、「ありがたいね」「よかったね」の一言で、何度でもやり直せます。
いつでも、お待ちしています。
平等寺住職 谷口真梁