平等寺由来記
由来記とは
平等寺の始まり、信仰、再建、そして継承の願いを伝える記録です。
由来記は、寺の歴史を年表として並べたものではありません。弘法大師の開創伝承、本尊薬師如来の霊験、白水山や日光院という名の由来、戦乱からの復興、住職たちの再建事業までを、一つの流れとして語る文章です。
とくに大切なのは、これが外から書かれた説明文ではなく、寺の内側で語り継がれてきた記憶を文章にしたものだという点です。そのため、史実の記録であると同時に、平等寺が自らをどう理解してきたかを伝える資料でもあります。
原文は古い文体で書かれているため、このページでは各節ごとに、まず内容の要点を短く解説し、次に忠実な現代語訳を示し、最後に原文そのものを置いています。意味をつかんでから原文へ戻れるので、由来記の内容と響きの両方を追いやすい構成です。
平等寺の由来 蓮華の松
由来記はまず、平等寺がどこにある寺かではなく、どのような瑞相によって開かれた寺かを語り始めます。寺の起点を土地の選定ではなく、弘法大師が確かめた霊験に置いているところが、この記録の大きな特徴です。
この平等寺は、真言宗の根本の祖である弘法大師が開いた、四国霊場第二十二番の札所であり、「白水山日光院」と号します。
その由来をたずねると、嵯峨天皇の御代、弘仁五年(814)三月中旬に、弘法大師がこの地を巡られ、伽藍を建てる場所の相を御覧になりました。
そして北の荒田野の山に登り、「ここが密教の流布し、感応のある土地であるなら、ふさわしい奇瑞を現しなさい」と言って、閻浮提金の蓮華を投げて試されたところ、一株の大きな古松の枝に掛かり、八方に光り輝きました。
そのありさまは、まるで諸仏が来迎し、一斉に白毫の光を放っているようであったと伝えています。
夫此平等寺は本朝真言宗根本高祖弘法大師の開基に係る四国第弐拾弐番の霊場にして「白水山日光院」と號す。今其由来を尋ぬるに人皇第五拾弐代嵯峨天皇の御宇弘仁五年甲戌(814年)三月中旬、大師此地に巡錫あって伽藍創置の地相を見給ひ、北荒田野の山に登り給ひて「此處密教流布感應の地たらんか宜しく奇瑞を現ずべし」と閻浮提金の蓮華を投げて試み給へば一大古松の枝に懸りて八方に輝きたり。其様諸佛の来迎あって一斉に白毫の光を投つに似たり。
弘法大師御作、本尊薬師如来と日光月光両菩薩、十二神将
ここが由来記の中心で、平等寺の本尊がなぜ薬師如来なのか、寺号の「平等寺」がどこから来たのかが一つにつながっています。寺の名も、本尊も、弘法大師の開創伝承の中で同時に定まったものとして語られています。
弘法大師はこの奇瑞に感じ入り、夢うつつのような三昧の境地に入られました。
しばらくすると、空中に丸い光のかさのようなものが現れ、その光の中に瑠璃色の鑁字があらわれ、やがて薬師如来のお姿となりました。そして「私は衆生の苦しみを、分け隔てなく平等に癒やし去る」と言って、五色の光を放ち、大師を照らしたと見られたのです。
そこで弘法大師は、深い真心をこめて、一刀ごとに三度礼拝する作法で、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩・十二神将の尊像を刻み、七堂伽藍を築かれました。
そのうえで、「松の上の蓮華が八方に輝いたのは、平等に利益を与える大いなる誓いのしるしである。だから寺の名を平等寺とするべきだ」とおっしゃいました。
これが当院の始まりの姿であり、蓮華が掛かった松は、今山上にある蓮華の松の前身であると伝えられています。
大師之に感じて夢幻に入り誦行三昧。時を移すに空中忽ち圓光蓋の如くに現れ光中瑠璃の鑁字を顕し而して薬師如来となり「我衆生の苦を醫し去ること平等不偏なるべきぞ」と五色の光明を放って大師を照觸したりと見給ふ。
此に於て大師慇誠を凝らして一刀三礼の薬師如来及日光月光十二神将の尊像を刻み給ひ七塔伽藍を起して宣ふ。 「夫れ松上の蓮華八方に輝くもの是平等利益の弘誓の徴宜しく寺を平等と称すべし」と。 是當院濫觴の模様にして蓮華の懸かり松は今山上に在する蓮華の松の前身なりと。
昔の伽藍配置
この節は、今の境内だけでは見えにくい草創期の平等寺の広がりを伝えています。地名が記憶の容れ物となっていて、伽藍の姿そのものは失われても、寺の記憶は土地の名として残ったことがよくわかります。
当院の寺域は、今の寺院より少し東に本坊屋敷があり、その次に「蓮池」と呼ばれる場所がありました。
そこを起点として、西の山中には「経塚」や「護摩谷」と呼ばれる場所があり、これは弘法大師が護摩修行をされた旧跡だと伝えられています。
さらにその西には「塔ヶ原」があり、そこから十町ほど離れたところには仁王門の旧跡があって、今でも「堂床」と伝えられています。その谷を「仁王ヶ谷」と呼びます。
また東の方へ八町ほど行った所には、鎮守の祗園十二社権現があった場所があり、ここは本尊の旧跡であると口伝に残され、広く平等寺の地名の由来になっています。
これらの地名から考えると、弘法大師草創当時の平等寺が、壮大で荘厳な山岳寺院であったことが十分にしのばれます。
當院の寺域は今の寺院の少しく東に本坊屋敷。次に「蓮池」と称する処あり。此処を起点に山中西には「経塚」並びに「護摩谷」と呼ぶ処あり。此は大師護摩修行の𦾔跡なりと傳へられぬ。其次西に「塔ヶ原」。尚拾町許り隔てて仁王門の𦾔跡、今に「堂床」と傳えられぬ。其尾を「仁王ヶ谷」といひ、又東東方八町程の地点に鎮守祗園十二社権現の在りし処あり。此地は本尊の𦾔跡なりと口碑に遺りて、廣く平等寺の地称を起せり。此等の点より察するときは、大師草創時代に於ける山岳寺院の髙顕輪奐荘厳の程大に思ひ遣らるべし。
本尊薬師如来の厄除祈願の功徳
ここでは、本尊薬師如来の霊験が昔話ではなく、今も続く祈りの根拠として語られています。平等寺の厄除祈願や病気平癒の信仰が、由来記の中でどのように位置づけられているかが明確に示される部分です。
その後、寺は今の場所に移って庭園寺院の姿になりましたが、弘法大師がお作りになった薬師如来は、変わらず本堂の本尊として、人間界や天上界のさまざまな苦しみを癒やしてくださるとされています。
その利益と見えない守護は、昔も今も少しも変わりません。これこそが、当山に万病調伏や厄除祈願の法が伝わる理由であると記されています。
さらに後鳥羽院の時代には、この霊験をお聞きになって、厄除祈願のために当山と日和佐の薬王寺へ勅使を遣わされたとも伝えられています。
其後今の処に移りて庭園寺院と化したるも、大師御作の薬師如来は依然本堂本尊として人間天上有漏の苦患を醫せさせ給ふ。利益冥護は昔も今も変ることなし。是れ本山に萬病調伏厄除祈願の㳒ある所以なり。人皇八十二代後鳥羽院の時に至りて此霊験を聞食し、厄除祈願の為本山及び日和佐の薬王寺へ勅使を下らせ給ひしと傳へられたるこそ有難けれ。
白水山の由来
平等寺の山号は、単なる地名ではなく、加持水の奇瑞と結びついた名として理解されています。ここでも「尽きない水」と「平等」という感覚が重ねられ、寺の名と信仰の意味がつながっています。
また弘法大師が寺を開かれたはじめ、加持水を得ようとして独鈷で山の岩肌を突き開かれたところ、霊泉が噴き出し、その水は乳のように白かったといいます。
これが「白水山」という山号の始まりであり、後の世にはこの水を「加持水」と呼び、虫除けや火除けに霊験があるとされました。
その水は増えもしなければ減りもしないとされ、それもまた平等のしるしであり、天井の鑁字が水面に映って鏡のように見える、不思議な霊泉であると記しています。
又大師草創の始、加持水を得られんが為獨鈷を以て山崖を穿ち給へば、霊泉噴出して白水乳の如し。是れ白水山の起原にして後世之を「加持水」と称し、蟲除火除に霊験あり。其水始終増すことなければ減ることもなし。是亦平等の象にして天井の鑁字は水に映りて鏡の如く誠に奇妙の霊泉なり。
日光院の由来
白水山が水の奇瑞なら、日光院は光の奇瑞です。平等寺の山号と院号が、それぞれ水と光の出来事から説明されていることで、寺の始まりが非常に象徴的な構図で語られているのがわかります。
ある朝、弘法大師が加持水をすくおうとして泉のほとりに立たれると、きらきらとした日光が水面に映り、その大きな光が院内をあまねく照らしました。
これが「日光院」という院号の由来であり、その大いなる光の遍照は十一面観世音菩薩のお姿であるとされています。
このことから、方丈の本尊を十一面観世音菩薩と定められたのだと記されています。
大師一朝加持水を掬はんと欲し給ひ出でて泉頭に立ち給ふに、灼々たる日光水に映して大光普く院中を照らす。是れ「日光院」の始因にして大光普照は十一面観世音菩薩の象なり。是より方丈の本尊を十一面観世音と定めさせられ給ふなり。
十一面観音の功徳
由来記は薬師如来だけでなく、十一面観音についてもかなり丁寧に説明しています。寺に重なる複数の信仰が、ばらばらではなく、一つの霊場の中で整えられていたことがここから見えてきます。
現在伝わるこの本尊は、昔、大きな光を放ちながら海から現れたといわれています。
その「大光を放って大海より出た」ということは、この本尊が天地のすべてを照らし、大海が何ものも分け隔てなく受け入れるように、広く衆生を救い漏らさないという意味であると説明しています。
この本尊は、正面の三面が慈悲、左の三面が忿怒、右の三面が牙を上にして、善を見れば喜び、悪を見れば笑う相を現します。そして中央の本体は、笑うことも怒ることもなく、善悪は本来二つではないことを示しています。
また頂上の一仏は「過去正法明如来」で、これを対果形因といいます。
このような因縁により、この観音は水難や火難を免れさせ、子安守護の本尊として厄難を除き、福寿延命を与えてくださる御誓願を持つとされています。その仏徳と衆生利益は、薬師如来とあわせて、万代にわたって変わらないものであると記されています。
現在存する本尊は往昔大光を放ちて大海より出現まし〳〵たりとかや。其大光を放ちて大海より出てたりといへるは、此本尊普く両儀を照して大海の容ること限なきが如く弘く衆生を救ひ度して漏らさざるの謂なり。
此本尊前の三面は慈悲。左の三面は忿怒。右の三面は牙を上にし給ひて、善を見ては喜び悪を見ては嘲り笑ふの相を現し、本体正面は不笑不瞋にして善悪不二なり。又頂上の一佛は「過去正法明如来」之を對果形因といふ。 斯る因縁を以て水難火難を免れしめ子安守護の本尊として其厄難を免れしめて福壽延命を與へ給ふ御誓願なり。斯る佛德利生の程は薬師如来を相待って實に萬代不易なるべし。
『四島隨方録』の漢詩
この節があることで、平等寺の印象が寺内の口伝だけでなく、外部の知識人による漢詩にも現れていたことがわかります。白水山、日光院、瑠璃の光という核となるイメージが、外から見ても平等寺らしさとして受け取られていたのでしょう。
享保十七年(1732)五月、阿波の名高い学者であった杜多普謃も、自ら著した『四島隨方録』の中で、霊場第二十二番白水山平等寺を題材とし、日光院の名を詩の転句に織り込みました。
そこでは、「平等に人を済度する悲願の力は、迷いの渡し場にあっても親疎を問わない。日光院の内には月光の清らかさがあり、瑠璃の上なる妙なる真実を照らし見せる」と讃えています。
これは中興二世槐翁法印の時代のことでした。
去れば享保十七年壬子(1732年)五月良辰、阿刕の名儒杜多普謃の如きも自作の『四島隨方録』中に霊場弐拾弐番白水山平等寺と題し日光院を轉句に挟み、
平等度来悲願力 迷津何問有疏親 日光院裏月光浄 照見瑠璃上玅真
と讃詠せられたり。是中興二世槐翁㳒印の﨟中なりき。
弘法大師像と星供の由来
ここから由来記は、薬師信仰だけでなく星供の系譜へと話題を広げます。平等寺が病苦の救いだけでなく、災厄を祓う祈りの場でもあったことが、こうした秘法の由来から浮かび上がります。
御影堂の本尊である弘法大師の尊像にもまた顕著な霊験があり、当院に特に伝わる星供の秘法とともに、長く伝えられるべきものだと述べています。
そもそも当院の星供の秘法は、弘法大師がまだ伝灯大阿闍梨位の空海大和尚であられたころ、勝浦郡星谷の大岩窟の下で七日間の大護摩修行をされた時に始まるといいます。
その際、悪星が三方に現れたので、大師が法力をこめて祈ると、一つはその地に落ちて「星の岩屋」の由来となり、一つは東南の岩脇村へ飛んで「取星寺」の名残を残し、もう一つは西南へ飛んでこの平等寺に落ちたと伝えています。
御影堂の本尊髙祖弘法大師の尊像靈験亦顕著にして當院殊傳の星供の秘㳒と共に長へに傳はるべし。抑當院星供の秘㳒は大師未だ傳燈大阿闍梨位空海大和尚にておはせし頃、勝浦郡星谷の山中大巖窟の下に於て七日の大護摩修行の際、悪星三方に現はれたるを大師法力を凝らして祈り給へば、其一其地に落ちて「星の岩屋」の由来を留め、其一飛んで東南本郡岩脇邑に至り「取星寺」に名殘を遺し、其一西南此地に来って當寺に落ちぬ。
星供の功徳
星供の効験は、この節では天皇への祈願という大きな物語で語られます。秘法の効力だけでなく、それを支える寺宝の存在まで含めて、平等寺の重みを示そうとしていることが読み取れます。
これによって星供の秘法が始まり、後小松天皇がご病気になられた時には勅命によってこの秘法が修され、祈願したところ、ただちに効験が現れて天皇が深く感じ入られたと伝えられています。
そして、前に述べたその星は、長い年月を経るうちに少しずつ小さくなり、手のひらに載せられるほどになって、長く当寺の重宝でありましたが、いつの時代からか失われてしまったことは、千年にわたる悔い事であると古文書には記されています。
是より星供の秘法は起りて、後小松天皇御悩の御時勅命あって此秘法を修し祈願し奉りしに、効験忽ち現れ叡感斜なうざりしと傳へらる。斯して上記の夭星は許多の年処を経るに随ひ漸々縮小して掌上に捧げ得るに至り長く當寺に重寳たりしに何時の世となく失せたりぬは千歳不摩の恨事なりと古文書類に遺れるのみ。
隕石の発見
ここでは、失われたと思われていたものが再び見つかる出来事が、単なる発見ではなく霊跡再興の兆しとして受け止められています。由来記そのものが、そうした再発見の延長線上で書かれていることを感じさせる部分です。
こうして星供の秘法もほとんど世間から忘れられかけていましたが、大正十二年(1923)に『新野町志』編纂のため、院内の古記録や什物を調査した際、その星が床下の土の中に埋もれていたのを見つけたと記しています。
この発見に対する筆者の喜びは、どれほどであったか言い尽くせない、と述べています。
随って星供の秘法も殆ど世人に忘れらしに、今茲に大正拾弐年癸亥(1923年)八月中伏『新野町志』編纂の事あり。院中の古紀錄什物調査の砌、之が床下の土中に埋れ在りしを散見したり。貧道の悦何んぞ之に加えんや。
星供の功徳と御詠歌
ここで再び「平等」という言葉が前面に出てきます。由来記全体を通して、病を癒やすこと、祈りを受け止めること、功徳を与えることのすべてが、分け隔てなく及ぶものとして理解されているのがよくわかります。
これはまことに当院隆興のめでたいしるしであり、星供の秘法はこれによって完全な形で末永く伝えられるようになったと記しています。
そして、この秘法が信者に与える功徳が一切平等であることは、弘法大師の御詠歌とあわせて知るべきであると述べます。
御詠歌は、「平等にへだてがないと聞くと、なんとありがたく頼もしい仏であろうか」という意味です。
是洵に當院隆興の祥兆にして、星供の秘法は是より完全旦永世に傳へ得るなり。此秘法の信者に及ぼす功徳は一切平等なる事大師の詠歌と相待って知る可きなり。
平等に へだてのなきと 聞く時は あらたのもしき 佛とぞ見る
平等寺の宗派について
由来記は寺の縁起だけでなく、自分たちがどの法脈に連なるのかもはっきり書き残しています。平等寺が高野山につながる真言の古い流れの中で、自らを位置づけていたことがここに現れています。
そもそも当院は、弘法大師の開基以来、根本本山である高野山に属してきました。
白河・堀河両帝のころ、根来に覚鑁が新義を興し、応永年間には高野山の塔頭でも学派の対立がありましたが、当院はその騒ぎに乱されることなく、古義真言の法脈を一筋に伝えてきた寺であると述べています。
抑ゝ當院は高祖弘法大師の開基以来、根本本山髙野に属し、白河堀河両帝の頃根来の覚鑁新義を興し、應永年中野山の塔中宝性院宥快、無量壽院長覺、其学敵し反目したるも攪乱せらるる事なく古義一徹の燈脈なり。
高野山山王院での信長公調伏
一見すると平等寺から離れた話ですが、これは当院が属する宗門の大きな歴史を背負っていることを示す節です。由来記は、地方の一寺の来歴を、高野山全体の法脈と切り離さずに語っています。
ところが天正年間、織田信長が高野山に敵対し、多くの僧徒が捕らえられ、寺領も没収され、高野山討滅の大軍まで差し向けられたため、山内の僧や行人は戦いに巻き込まれました。
そのような中、翌年五月、高野山山王院において調伏の法が修されたところ、六月に信長は明智光秀に討たれ、軍勢は離散したといいます。
由来記は、これを弘法大師と神明の御加護による冥罰であると受け止めています。
然るに天正年中、織田信長不法の振舞あって野山に敵し、遂に同山の僧黨一千三百八十三人籠舎に及び、天正九年(1581年)九月晦日、近江國安土市の外京都・七条河原・伊勢蜘津河原三ヶ処に於、而悉く成敗誅戮仰付られ寺領殘らず召上げられ、剰へ野山討滅の大軍をさへ向けられたれば衆徒行人是非なく戦場に及ばれ、翌年(1582年)五月以の外、御社山王院に於て調伏致され候処に、六月信長明智日向守光秀の為に弒せられ軍勢此に至りて離散したりき。是皆大師明神代々御願の天子冥罰なり。
長曾我部元親公の伝説
ここでは戦乱の話も、単なる被害の記録ではなく、祈りへの畏れや本尊への敬意を軸に語り直されています。兵火のなかでも寺の尊厳が保たれたと理解したい気持ちが、この伝承には色濃く表れています。
このころ山内は大いに衰え、末寺も荒れ、当院も法灯が消えかねないほどの打撃を受けたといいます。長宗我部の乱入によって寺院の多くが兵火に遭い、当院も同様だったと伝える説もあります。
しかし由来記は、それらは誤って伝わったものであり、元親が当院の前を通った時、経行祈願の声を聞いて、たちまち馬を下りて拝礼したのだと記しています。
そして元親は、「もし志を遂げられるなら、霊跡の復興に尽くしたい。もし武運つたなく閻魔の庁へ行くことになっても、本堂・方丈の本尊、そして開基の弘法大師、ひいては阿修羅明王よ、弘誓の舟に導いてください」と涙を流し、鎧の袖を濡らして去ったといいます。
この話は、「堂塔は焼かれたが本尊の不思議によって兵火を免れた」とか、「紫雲に乗って逃れた」といった縁起と比べると、どう受け取るべきであろうか、と筆者は結んでいます。
此時一山の衰替末院の荒敗言語同断。當院亦打撃を受けて傳燈将に消へなんばかりなりしに長曾我部乱入の事ありて、寺院大半兵火に罹り當院亦然りと傳ふ去れども、是皆訛傳にして元親の當院を過ぐるや経行祈願の聲を聞き、忽ち下馬して拝伏したる後、「我若し志を得んか靈跡復興の事に従はん。武運拙く閻魔の廰に至らんか本堂方丈の本尊當山開基の髙祖大師引いては阿修羅明王弘誓の舟に導き給へ」と落涙潜々鎧の袖を濡らして去れりと。 是を「堂塔焼かれて禦ぐに術なく辛うじて本尊の不思議に兵火を免れたり」とか「紫雲に乗じて逃れたり」とか傳ふる縁起に比ぶれば人夫れ以て如何となすや。
江戸時代からの復興の歴史
この短い一節は、ここから先が再建の歴史に入ることを告げる扉になっています。由来記は、開創の奇瑞だけでなく、衰退と復興も同じ重さで後世へ伝えようとしています。
もっとも、戦国期以後、蜂須賀氏の入国のころには四国霊場全体が衰え、平等寺の衰退も極みに達していたと記されています。
然りと雖も戦國以降、蜂須賀入國始にあっては四國霊場一般に衰へ當寺の如きも衰替其極に達しぬたりき。
中興一世照俊法印
照俊法印は、由来記の後半における主役です。平等寺の再建は偶然始まったのではなく、荒廃した霊跡を見て志を立てた一人の僧の決意から始まったのだと、この節は強く印象づけています。
しかし霊元天皇の御代、延宝五年(1677)春三月に、伊予国桑村郡古田村の渡邊孫兵衛の子で、同郡足摺山光隆寺で得度した一人の僧が、数人の家来を従えて当寺にやって来ました。
その時、先住の権大僧都宥染はまだ存命でしたが、霊跡は荒れ果て、草庵のような姿になっていました。
この僧はそれを嘆き、ついに復興を志しました。この人こそが、当山中興第一世の聖僧、権大僧都照俊法印であると記されています。
然るに人皇第百拾七代靈元天皇の御宇延宝五年丁已(1677年)春三月、豫州桒村郡古田村渡邊孫兵衛の一子にして同郡足摺山光隆寺に入って得度し得たる一僧、数人の家来を隨へ當寺に来る。此時先住權大僧都宥染存命中なりしも、靈跡荒頺草庵に等しかりき。其僧之を歎きて遂に復興の業を誓ふ。之を當山中興一世の聖僧、權大僧都照俊法印なりとす。
中興一世照俊法印の業績と遺言
重要なのは、照俊法印が堂宇を建てたことだけでなく、再建を何代にもわたる仕事として残したことです。建物と行事の両方を継承すべきものとして遺命にしているため、平等寺の復興は単発の工事ではなく、継承の計画として理解できます。
その後、照俊法印は寺地を整え、堂宇再建の事業を進め、天和三年(1683)には梵鐘を再鋳し、宝永三年(1706)には楼門を建て、享保七年(1722)八月には本堂を建立しました。
そして享保十年(1725)霜月七日、法臘四十五年、八十歳で、ていねいに後事を託して入寂しました。
そのときの遺命には、「代々の住持はこの志をよく受け継ぎ、堂宇の造立を絶やしてはならない。新たに本堂を建て、私が建てた堂には銅瓦を葺き、高祖大師の御影堂としなさい」とあり、銅製の巴唐草の雛形まで用意しておかれました。
また「方丈や庫裏も昔の伽藍に等しいものとするよう努めよ。さらに、弘法大師以来絶えていた行事も、時が来れば復興させなさい」とも言い残したと記されています。
其後、法印境地経營堂宇再建の業を興し、天和三年癸亥(1683年)四月吉日洪鐘を再鑄し、宝永三年丙戌(1706年)仲春樓門を興し、享保七年壬寅(1722年)八月本堂建立の後、享保拾年乙巳(1725年)霜月七日法﨟四拾五年壽齢八拾歳にして慇懃に後事を囑して遷化したりき。 其時遺命に曰く「願はくば師々服膺し第々積集して造立絶ゆべからず。新に本堂を造立し我が建つる処の堂は銅の瓦を葺きて髙祖大師の御影堂となすべし」と。即ち銅製巴唐草の雛形を製し置かれぬ。 又曰く「方丈庫裏も往古の伽藍に等したらしむるを期せよ。尚、髙祖大師後絶えたる行事は時至って復興すべし」云々と。
中興二世槐翁上人 現本堂建立
この節は短いですが、照俊法印の遺志が次代できちんと受け継がれたことを示しています。由来記が再建史を細かく記すのは、復興が一人で完結したのではなく、代々の住職の積み重ねであったことを伝えるためです。
次の法印である槐翁上人は、その遺命を受けて裏山を切り開き、元文二年(1737)三月に新たに薬師堂を建立しました。
そして寛保三年(1743)二月二十九日、六十一歳で入寂しました。
次の法印槐翁上人遺命を奉じて後山を穿ち、元文弐年丁已(1737年)三月新に薬師堂を造立し、寛保三年癸亥(1743年)二月弐拾九日六拾壱歳にして遷化したり。
中興三世慧燈 薬師如来遷座
ここでは、建物の再建だけでなく、本尊の安置と供養が再建の中心に置かれていることがわかります。平等寺の再興が、最後には薬師如来を中心とする祈りの場を整え直すことに向かっているのが印象的です。
その遺弟である慧燈は法灯を継ぎ、翌寛保四年(1744)二月二十八日に薬師如来の入仏供養を行い、その後に方丈と庫裏を整えました。
そして安永五年(1776)九月二十八日、五十六歳で入寂しました。
其遺弟慧燈法燈を承けて、其翌寛保四年甲子(1744年)二月二十八日、薬師如来入佛供養を遂げ尋て方丈庫裏を経營し、安永五年丙申(1776年)九月弐拾八日五拾六歳にして遷化しぬ。
中興四世無為 大師堂・護摩堂建立
この節では、再建が堂宇の整備から修法の復興へ進んでいく様子が見えます。護摩堂を建て、護摩修行を興し直すことで、平等寺がただ残る寺ではなく、祈りが実際に行われる霊場として立ち直っていく過程が描かれています。
その遺弟、権大僧都無為の代になると、安永八年(1779)正月に、照俊が遺した雛形に従って銅瓦を作り、大師堂を再建し、あわせて護摩堂建立の功を成し遂げました。
さらに五穀豊穣、万民快楽、海上安全、船人安全の祈願を広く行い、千日千座の護摩修行と普門品読誦の行事を起こして、弘法大師が護摩修行をされた昔の姿にかなうものとしたと記しています。
其遺弟權大僧都無為の世に至りて、安永八年己亥(1779年)正月中興照俊遺す処の雛形に則り、銅の瓦を造りて大師堂を再營し、倶に護摩堂造立の功満ちぬ。尋て五穀豊熟万民快楽海上無難船人安全の祈願を普し千日千坐の護摩修行普門品誦讀の行事を起して髙祖大師護摩修行の昔に迎合したりき。
中興五世啓盤 薬師如来ご開帳
平等寺にとって、薬師如来ご開帳の復活は大きな節目です。由来記はこの行事を単なる寺内行事ではなく、厄除薬師としての利益が世に知れ渡る契機として位置づけています。
以上四世のあと、中興五世権大僧都啓盤の代になって、寛政四年(1792)三月四日から五日間、久しく絶えていた薬師如来の開扉行事が復活され、後の世の手本を残しました。
初日は御影堂供養の大曼荼羅供、中日は八祖開眼供養、結願には法界万霊のための流水灌頂修行が行われました。
これによって、厄除薬師如来の開帳利益は世に広く知られるようになったと記されています。
以上四世の後、中興五世權大僧都啓盤の世に至りて、寛政四年壬子(1792年)三月四日以降五日間、久しく絶えたる薬師如来開扉の行事を復活して後世に範を垂れたり。其初日「為御影堂供養大曼陀羅供」、中日「八祖開眼供養」、結願「為㳒界萬靈流水灌頂修行」。是より厄除薬師如来の開帳利益は世に知られ渡りぬ。
中興八世憲翁 大師堂建立
ここで見えてくるのは、再建が住職だけの事業ではなく、信者の発願によって支えられていたという事実です。大般若の整備が記されていることで、平等寺の信仰が当時の檀信徒とともに育まれていたことが伝わります。
中興八世権大僧都憲翁は、文政五年(1822)閏正月、四十八歳のときに御影堂を造立し、同七年(1824)四月二十一日に上棟式を行いました。
今、当院に蔵されている『大般若』は、そのころ信者の発願によって成ったものだと記されています。
中興八世權大僧都憲翁は、文政五年壬午(1822年)閏正月四拾八歳の時御影堂を造立し、同暦七年甲申(1824年)四月廿一日上棟式を擧げたり。今當院に匨する『大般若』は當時信者の発願に依りて成りたるものなり。
中興十世儀陶上綱 大般若轉讀
この節は短いものの、行事が一度きりで終わらず、少しずつ積み重なって現在の形になっていったことを示しています。由来記は、寺の歴史を出来事の連続として丁寧に覚えている記録でもあります。
それ以後、薬師開帳の会中には「転読大般若修行」を加えるのが恒例となりました。
その始まりは、中興十世儀陶上綱が、文政十一年(1828)三月二日から七日間の開扉を行った時であると記されています。
是より後、薬師開帳の會中「轉讀大般若修行」を加ふるを以て例とするに至れり。其之を始めたるものは、中興拾世儀陶上綱文政十一年戊子(1828年)三月二日七日間開扉の砌なりとす。
中興十一世等我、十二世等𦬅、十三世西宥賢師の業績
この節は、近世後半から明治にかけての住職たちの事績をまとめたものです。大きな伝承だけでなく、鐘や堂、什物の整備まで書き残しているところに、由来記の実務的な側面も見えてきます。
中興十一世等我大和尚は秘法に通じ、空中を歩いたとも噂されました。
十二世等𦬅和尚は、天保十一年(1840)四月十六日に、中興のころ鋳造された梵鐘を改鋳して今に伝えました。
また中興十三世少僧正西宥賢大和尚は、明治十七年(1884)に閻魔十王堂を造営し、同年四月十五日に上棟式を行い、その後も蓮華の青銅浄水鉢を鋳造して建てるなど、さまざまな経営を行って現在に至ったと記されています。
中興十一世等我大和尚は秘法に精通して宙を歩みたりと噂せられ、十二世等𦬅和尚は天保十一年庚子(1840年)四月十有六日、中興鑄造の洪鐘を改鑄して今に遺し、中興十三世少僧正西宥賢大和尚は、明治十七年壬申(1884年)春日閻魔十王堂造營同年四月拾五日上棟式を擧げられ、其後蓮華の青銅浄水鉢を鑄造し建設する等種々の経営をなして今日あるに至りたり。
阿修羅天の護摩供
阿修羅天の護摩供は、平等寺の祈りが個人の病苦だけに向けられていなかったことを示す重要な節です。国家的な危機に対する祈りまで担う場として、当院が理解されていたことがよくわかります。
当院にはまた、弘法大師の修法である「阿修羅尊護摩供」の秘法も伝わっていると記されています。
この法は、梵天や帝釈天と戦った猛神である阿修羅王に回向して、悪魔や強敵を調伏する効験をあらわすものです。
昔、弘安四年(1281)の元寇のとき、勅命によって諸国の寺社が敵退散を祈った際、当院では七日七夜この法をつつしんで修しました。すると七日目の夜に暴風が急に吹き起こり、それがまさに元軍が海に沈んだ瞬間であったと伝えています。
それ以来、武運長久や国家安泰のために、代々の国守がこの法を修させるようになったといいます。
また、長宗我部元親が当院の前で拝伏したのも、この修行の最中であったとされ、今でいえば国運の発展や軍人安穏といった軍事的祈願にも移して考えることができると結んでいます。
當院又大師修法の「阿修羅尊護摩供」の秘事あり。 此法たるや、梵天帝釋と闘ひたる猛神阿修羅王に回向して悪魔刧敵調伏の効を奏す。昔人皇第九十一代後宇多天皇の御宇弘安四年(1281年)の夏、元奴入寇の時敕命あって諸國の寺院神社刧敵退散の祈を凝らしし砌、當院にあっては七日七夜此法を謹修したるに七日の夜に至りて暴風俄に吹起りぬ。是れ方に元寇海に沈みたりし刹那なりしと。是より武運長久國家安泰の祈願の為には世々の國守之を修せしむるに至れり。 彼の元親が當院を過ぎんと欲して拝伏したるは此修行の最中なりしと。以て今日國運彂展軍人安穏等の軍事的祈願に移すを得べし。
信者さまのこと
由来記は堂宇や秘法だけでなく、信者の信仰の厚さも寺の歴史の一部として残しています。経典を書き写す行為や、照俊法印に連なる人びとの存在が、平等寺の歴史を生きたものとして支えていることが伝わります。
このほか、昔の信者たちの信仰の深さを知るべきものとして、肉体の病苦を喜びの涙に変えて書き写し残した『仏説薬師如来本願経』があると記しています。
また、中興照俊法印の形見として見るべきものには、従って来た従者の子孫である河野槇山らが今も存していると述べています。
以上の外、往昔信者の信仰念力如何を知るべきものには、肉躰の病苦は随喜の涙と化して浄冩し遺せる『佛説薬師如来本願経』の在するあり。中興照俊法印の形見として見るべきものには率い来りし従者の子孫河野槇山等の存するものあり。
中興十四世津梁師の遺言
結びのこの節は、由来記そのものが未来へ渡すための記録であることをはっきり示しています。津梁師は過去を説明しているだけではなく、これを受け取る後代の住職へ、霊跡と記録の両方を守り続ける責任を託しています。
とくに、長く埋もれていた来歴や重宝が今になって再び現れたことは、筆者自身の宿縁の深さを悟るに足ることだと述べています。
そして、自分がいっそう丹誠をこめて祈り、この霊跡を永く失わせないよう努めるのは、開山の弘法大師と、中興の照俊法印へのご恩に対する、ほんのわずかな報恩の心であり、後に続く師弟たちも深く心に刻むべきことだと記します。
そのうえで、真如の月の光の下にこれを書き残し、これから当院の住職となる者は、修補と続稿の労を惜しんではならないと強く願って結んでいます。
殊に久しく埋れたりし来歴重寳等の今に至りて再現したるは貧道の宿縁如何を悟るに足る。是れ貧道が益丹誠精祈を凝らして永く靈跡を失墜せしめざるは開山髙祖弘法大師、中興法印照俊先師に對する報恩萬分一の微衷にして、亦後毘師弟の深く服膺すべき処なりと真如の月の光の下に謹記し置きて、今後當院に住職たる者、修補續稿の勞を惜む勿れと囑望する事如件。
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