第1回
1〜18番 / 阿波の発願から恩山寺へ発願の霊山寺から焼山寺、阿波十八ヶ寺の結びとなる恩山寺まで。安楽寺の宿坊に泊まりながら、遍路の流れを二日間で確かめる行程です。


八十八ヶ所巡り 第1回
一泊二日・全7回シリーズの第1回
四国霊場第22番札所・平等寺住職 谷口真梁の解説とともに、阿波の札所一番から十八番までを二日間で巡ります。 貸切バスで移動し、安楽寺の宿坊で一泊しながら、札所ごとの由緒や拝み方にふれ、一ヶ寺ずつ丁寧に拝んでいく巡拝です。
日程
6.13土
6.14日
参加費
40,000円
宿泊・昼食二回・バス代込
個室希望 +2,000円
納経代は別途・当日ご持参ください
住職より
四国遍路は、一ヶ寺一ヶ寺で心を整え、仏さまに手を合わせながら歩む祈りの道です。平等講四国遍路では、私が皆さまとご一緒し、各札所の由緒や本尊さまのこと、納経や読経の作法を、その場その場で丁寧にご案内いたします。
第一回は、阿波の一番霊山寺から十八番恩山寺までを、二日間かけて巡ります。貸切バスで移動し、六番安楽寺の宿坊に宿泊しながら、遍路の歩みを一つずつ確かめてまいります。初めての方にも、おひとりで参加される方にも、安心してご参加いただける巡拝です。
札所の空気にふれ、ご自身の手で合掌し、声を出してお勤めを重ねるなかで、遍路の味わいは少しずつ深まってまいります。全七回の始まりとなるこの第一回から、四国の道をともに歩み始めてみませんか。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
こんな方に向いています
はじめての方へ
四国遍路に関心はあるけれど、作法も道順もよく分からない。そのような方にこそ、この第一回からご参加いただきたいと考えています。読経の手順や納経の作法は、各札所で住職がその都度ご案内しますので、難しい予習は必要ありません。
移動は貸切バスが中心で、初日の夜は六番安楽寺の宿坊に泊まり、夕勤行に参列します。寺に泊まり、朝までその空気のなかで過ごす時間は、札所を巡るだけでは得がたい遍路の味わいです。頭で理解するだけでなく、体で遍路を感じていただける二日間になるはずです。
この回の特徴
宿坊で味わう遍路の時間
初日の夜は安楽寺の宿坊で過ごし、夕勤行に参列します。札所に泊まり、朝夕のお勤めに身を置くことで、遍路ならではの時間の流れを静かに味わっていただけます。宿坊ですので、ハンドタオル、歯ブラシ、浴衣などの基本的なアメニティは揃っておりますが、それ以外は各自ご持参ください。巡拝予定
一日目
二日目
第1回
1〜18番 / 阿波の発願から恩山寺へ発願の霊山寺から焼山寺、阿波十八ヶ寺の結びとなる恩山寺まで。安楽寺の宿坊に泊まりながら、遍路の流れを二日間で確かめる行程です。
申込方法
旅行取扱
備考
お遍路さんの心得と巡礼用品
お遍路さんの心得
四国遍路は、弘法大師の御跡を慕いながら、札所を巡って祈りを深めていく巡礼です。この第一回でも、札所をただ見て回るのではなく、ご本尊さまとお大師さまに丁寧に手を合わせることを大切にします。
難しい理屈や厳しい修行を求めるものではありませんが、札所は観光地である前に祈りの場です。同行の皆さま、寺院、地域の方々への敬意を忘れずに歩むことで、遍路の味わいはいっそう深まります。
札所や道中での心がけ
巡礼用品

巡礼用品の基本
現在のお遍路さんは、写真のような格好で、白衣を身にまとい、笠をかぶり、右手に金剛杖を持たれていることが多くあります。左手は数珠で、首には輪袈裟をかけます。
白衣は、古来の日本における旅装束です。道中の身を清め、俗世を離れて祈りの旅に入るしるしでもあります。死装束とも言われますが、それは覚悟の衣という意味であり、本来は旅立ちの装いとしての意味が先にあります。多くのお遍路さんは、背中に「南無大師遍照金剛 同行二人」と書かれた白衣を着用されています。
右手の金剛杖は、お大師さまを表すとも言われ、自分の歩みをお大師さまに支えていただく「同行二人」のしるしでもあります。五輪塔のような形をしていることから、旅の途中で命を落としたときにはそのまま供養塔になったとも伝わり、最近は般若心経が書き込まれた杖も多く見られます。
笠は、日光や風雨から頭を守るためのものです。「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」と書かれていることが多く、これは「迷いのうちは世界が閉ざされた城のように見えるが、悟りの眼で見れば世界はどこまでもひらけており、本来は東西や南北にとらわれるものではない」という意味です。
歩きやすい服装と靴があれば、このツアーは遍路装束でなくてもご参加いただけます。
ただし、お寺の境内に入るときは、数珠と輪袈裟が揃うと、お参りの気持ちも自然に整いやすくなります。
最低限おすすめしたい用品

平等講のみの特別仕様です。空と海を表したブルーのグラデーションが美しい輪袈裟です。

高野山真言宗の正式な本連念珠です。材は平等寺住職が愛用している白樫で、房は白の梵天房。中糸は阿弥陀如来の智慧を表す赤糸です。

水晶仕立ての一尺一寸の念珠です。女性用としてお持ちいただきやすい仕立てです。

水晶仕立ての一尺三寸の念珠です。男女兼用でお使いいただけます。
そのほかの用品について



納経について
四国遍路では、各札所で読経をお納めし、納経を受けながら巡ります。納経に用いるのは、納経帳・掛軸・白衣(集印用)の三つです。どれもそれぞれに意味のある大切な納経用品ですので、どれに納経を受けるかを決めて当日ご持参ください。一生に一度のお遍路になるかもしれません。ぜひこの機会にいかがでしょうか。

四国遍路の納経帳は、各札所のご本尊さまにお経を奉納した証として、納経所で墨書とご宝印をいただく帳面です。絵柄や印影を集める記念印ではなく、祈りを納め、そのお参りの証を受けていくための大切な帳面です。
新しい納経帳に最初のお納経をいただくことを新調(しんちょう)といい、遍路を終えたあとも同じ納経帳に二巡目以降のお納経を受けることを重ね(かさね)といいます。重ねでは文字は書かず、ご宝印のみを押していただくのが通例です。
奉納料
第1回 18ケ寺

各札所でお経を奉納した功徳を一幅に集めていく納経用品です。結願後に表具すれば、法事のときにご家庭の本尊さまの脇掛として、あるいは弘法大師さまや十三仏のお軸に準じる大切な掛軸としてお祀りできます。完成までには時間も手間も費用もかかりますが、一覧性があり、巡拝の達成感をもっとも強く感じられる納経用品です。和室はもちろん、洋室でも一幅掛けることで、その周辺が祈りの場として自然に整ってまいります。
このツアーで結願された掛軸は、平等寺住職が開眼いたします。
奉納料
第1回 18ケ寺

各札所のご宝印を一着の白衣にいただいていく納経用品です。白衣は本来、遍路の旅装束であると同時に、最期に棺に納める死装束としても大切にされてきました。西国三十三所や四国八十八ヶ所のご宝印を集めた白衣は、閻魔大王の前でも着用が許され、仏の世界へと導かれるありがたい衣と伝えられています。
ご自身のために求める方はもちろん、ご両親など大切な方のために納経を重ねる方も多く、誰かのために願いを託せる納経用品です。
奉納料
第1回 18ケ寺
納経代は当日ご持参ください。持参した用品は、バスの中で係の者に納経代金とあわせてお預けいただきます。
平等寺おすすめの納経用品
納経帳・掛軸・白衣も、平等寺がおすすめするものを参加申込み時にご注文いただけます。どれも実際にお参りを重ねていくほど味わいが増していく用品です。





四国遍路では、各札所のご本尊さまにお経を奉納した証として、納経所で墨書とご宝印をもらうことができます。一般的な神社やお寺にある御朱印とは異なり、綺麗なイラストや印影を集めることが目的ではないため、昔ながらの納経(のうきょう)と呼び、それを集める帳面は納経帳と呼ばれます。





納経用の掛軸は、十三仏掛軸と弘法大師掛軸の二種類からお選びいただけます。十三仏掛軸は納経が揃えば真言宗のご法事にもふさわしい本尊掛として、弘法大師掛軸はご家庭の祈りの場でお大師さまをお祀りする一幅としてお迎えいただけます。


ご詠歌入りの集印用白衣です。各寺院のご詠歌の上に八十八ヶ所のご宝印が押印されていき、中央にはお大師さまのお姿と「南無大師遍照金剛」が入ります。巡拝の歩みがそのまま一着に重なっていきます。
詳細行程
一日目
2026年6月13日(土)平等寺出発
徳島駅乗車
霊山寺(釈迦如来)
この札所の見どころ
天平年間に聖武天皇の勅願を受けた行基菩薩が開基し、のちに弘法大師が37日間の修法を行った際、インドの霊鷲山に似た光景が現れたことから「霊山寺」と名づけられました。天正10年に長宗我部元親の兵火で焼失しましたが、蜂須賀光隆の手で再興され、現在の伽藍が整います。応永年間建立の多宝塔は阿波で最も古い塔建築として長い歴史を生き抜いた風格を漂わせ、白鳳時代の釈迦誕生仏も安置されています。本堂内に広がる泉水池には放生の伝統が息づき、池を見つめていると「発願」の意味をかみしめる静かな時間が流れます。門前では白衣・金剛杖・納経帳といった遍路用品を揃えることもでき、はじめての方もここで身支度を整えることで自然と巡礼者の心構えに切り替わります。縁結び観音に手を合わせれば、この旅が単なる観光ではなく、自分の祈りを一歩一歩たどる時間だと実感できるはずです。四国遍路の出発点であり、最も多くの巡礼者が最初に手を合わせる札所として、特別な空気が漂っています。極楽寺(阿弥陀如来)
この札所の見どころ
行基菩薩の開基と伝わり、弘仁6年(815年)に弘法大師が21日間にわたり『阿弥陀経』を読誦・修法した結願の日、阿弥陀如来が姿を現しました。大師はそのお姿を自ら彫造して本尊としています。本尊から放たれる光があまりに強く、鳴門の長原沖まで届いて漁の妨げになったため、漁民たちが本堂の前に小山を築いて光を遮ったという逸話が山号「日照山」の由来です。大師堂に安置される大師像は「安産大師」と称され、流産が続いていた婦人に加持祈祷を施したところ即座に子宝に恵まれたという霊験から、安産祈願に訪れる参拝者が今も絶えません。境内にそびえる弘法大師お手植えの長命杉は樹齢1200年超、高さ約31m、幹周り約6mの巨木で、鳴門市の天然記念物に指定されています。その前に立つだけで家内安全・病気平癒・長寿のご利益があるとされ、遍路が命そのものへの祈りと結びついていることを実感させてくれます。朱塗りの仁王門をくぐった先には極楽浄土を模した庭園が広がり、仏足石や願掛け地蔵にも手を合わせる参拝者の姿が見られます。金泉寺(釈迦如来)
この札所の見どころ
聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建し、もとは「金光明寺」と称しました。弘仁年間、弘法大師が巡教のさなか日照りに苦しむ村人を見かね、自ら井戸を掘ったところ黄金色の霊水が湧き出し、寺名を「金泉寺」に改めたと伝わります。この「黄金の井戸」を覗いて自分の影が映れば長寿、映らなければ注意が必要という占いの伝承は今も参拝者を惹きつけています。のちに亀山法皇(在位1259〜74)がこの寺に滞在し、京都の三十三間堂に倣った堂舎を建立して千体の千手観音像を安置、山号を「亀光山」と改めたことで寺格は大きく高まりました。源義経が屋島合戦へ向かう途上で戦勝祈願に立ち寄り、弁慶に力試しとして持ち上げさせたと伝わる巨石「弁慶石」も境内に残っています。北向地蔵には首から上の病気平癒のご利益があり、頭痛や眼病に悩む方の参拝が絶えません。皇室・武家・庶民それぞれの信仰が交差する、物語の幅が際立つ一寺です。大日寺(大日如来)
この札所の見どころ
阿讃山脈から南流する黒谷川に向かって張り出した標高70mほどの尾根に、南向きに伽藍が配されています。三方を山に囲まれた黒谷の地にあることから地元では「黒谷寺」とも呼ばれ、山号「黒巌山」もこの地形に由来します。弘仁6年(815年)、弘法大師がこの地で大日如来を感得し、一刀彫るごとに三度礼拝する「一刀三礼」の作法で1寸8分の大日如来像を彫造したことが寺名の由来です。八十八ヶ所のうち大日如来を本尊とするのはわずか6ヶ寺と少なく、貴重な札所です。元禄2年の『四國遍礼霊場記』には、かつては立派な堂塔が並んでいたものの歳月とともに荒廃していたと記されています。応永年間(1394〜1428年)に松法師なる僧侶の夢の託言により修復がなされたのち再び荒廃しましたが、徳島藩二代目藩主・蜂須賀忠英が慶安2年(1649年)に材木を寄進して本堂を建立、以後も五代目綱矩・十一代目治昭と歴代藩主が修復を重ねて今日の姿に至っています。平成25年の発掘調査では、境内北側に鎌倉時代以降の遺構や12世紀頃の窯跡が確認され、中世に遡る宗教的施設がこの地に存在していた可能性が示されました。本堂と大師堂をつなぐ渡り廊下には西国三十三観音にちなんだ33体の観音菩薩像が並び、回廊を歩くだけで三十三所巡礼の功徳を得られるとされています。大師堂内陣の仏画「両面大師」は表裏で異なる姿の大師が描かれた珍しい作品です。明治以前は真言宗御室派に属し、かつて住職を務めた泉智等は御室派の管長にまで昇った人物で、庫裡の軒丸瓦や欄間には十六菊の寺紋が残ります。荒廃と再興を繰り返しながら中世から信仰を紡いできた、阿波の札所の歴史の深さを実感できる一寺です。地蔵寺(勝軍地蔵菩薩)
この札所の見どころ
弘法大師が自ら刻んだとされる甲冑姿の勝軍地蔵菩薩を本尊とし、武運と勝負事にご利益がある霊場です。嵯峨天皇の勅願所として篤く庇護され、最盛期には阿波北部に末寺300余、塔頭26坊を数える大寺院でした。寺域は現在の境内をはるかに超えて広がり、周辺一帯が地蔵寺の寺領だったと伝わっています。源頼朝が平家追討の戦勝祈願に寄進し、弟の義経も屋島合戦へ向かう途上で武運を祈ったとされ、武家の信仰が厚い寺でした。天正の兵火で伽藍の大半を焼失しましたが、蜂須賀家の支援で復興し、今の落ち着いた境内に整えられました。樹齢800年を超えるたらちね銀杏は往時の寺域を知る生き証人のように境内を見守り、秋には黄金色の落葉が地面を埋め尽くします。山門近くの水琴窟に耳を澄ませると澄んだ音色が響いて、歩き続けた気持ちを静かに整えてくれます。かつての大寺院の面影が静かに息づく、阿波でも特に印象深い札所です。昼食
切幡寺(千手観世音菩薩)
この札所の見どころ
布を織っていた娘のもとに、旅の僧姿の大師が立ち寄り、布を求めたと伝わります。娘は惜しげもなく織りかけの布を切って差し出しました。その心に感じ入った大師が灌頂を授けると、娘の体から七色の光が放たれ、そのまま千手観音に変じたとされています。「女人即身成仏」の美しい伝説として今も語り継がれ、女性の救いと信仰の原点ともいえる物語です。333段の石段は「女厄坂」33段と「男厄坂」42段に分かれ、一段一段を踏みしめること自体が厄を落とす修行と考えられてきました。登りきった先に広がる吉野川平野の眺望は阿波の札所随一で、急坂を上った者だけが得られるご褒美です。山上で待ち受ける二重塔は、豊臣秀頼が大坂の住吉大社から秀吉の菩提を弔うために移築した国指定重要文化財です。上層が和様、下層が唐様という日本唯一の構造様式を持ち、移築の際に海路と川船で運ばれたという逸話も寺に残ります。境内には大正時代に建てられた「はたきり観音像」が静かに立ち、伝説の娘を偲ぶ参拝者が花を手向ける姿が見られます。石段・伝承・眺望・建築が一体となった、初回の巡拝でもっとも達成感のある札所です。法輪寺(涅槃釈迦如来)
この札所の見どころ
もとは現在地から北約4kmの山間にあり「白蛇山法林寺」と称していました。弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地で白蛇を見つけ、仏の使いであるとして釈迦の涅槃像を刻み本尊としたと伝わります。天正の兵火で焼失後、正保年間(1644〜48年)に現在地へ移転再建され、山号を「正覚山」、寺名を「法輪寺」に改めました。四国唯一の涅槃釈迦如来を本尊とし、頭を北に顔を西に向けて右脇を下にして横たわるお姿は、諸行無常の教えを身体で伝えています。周囲には白く枯れた沙羅双樹と、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像が安置され、年に一度公開されます。松葉杖なしでは歩けなかった参拝者が、この寺を訪れるうちに足が軽くなり杖を置いて歩けるようになったという霊験から、本堂には感謝の奉納わらじが数多く掛けられています。納経所で授かれる「足腰お願いわらじ」は健脚祈願のお守りとして今も親しまれています。遍路がただ前へ進む旅ではなく、生と死を見つめる修行でもあることを教えてくれる札所です。熊谷寺(千手観世音菩薩)
この札所の見どころ
弘法大師がこの山中で修行していた折、熊野権現が現れて金の観世音菩薩像を授けたことが開創の由来です。大師はその像を胎内仏として千手観音を彫り本尊とし、今もその信仰は途絶えていません。寺には釈迦の遺骨とされる仏舎利126粒が安置されるほか、盗賊に持ち去られた仁王像が一夜にして自ら元の場所に戻ったという不思議な伝説も残ります。四国霊場で最大最古とされる仁王門は高さ約13m、江戸中期の建立で、門をくぐる前から堂々たる威圧感が参拝者を包みます。境内奥に立つ多宝塔も四国霊場最古の塔建築で、内部には大日如来像と四方の如来像が安置され、密教の曼荼羅世界を立体で感じさせる荘厳な空間です。参道から境内にかけてはソメイヨシノや枝垂れ桜が植えられ、春には仁王門と桜が重なる光景が阿波屈指の花見名所として親しまれています。元禄期の遍路記にも谷の深さや景観の美しさが書き留められており、写真に収まらない立体感を現地で味わいたい札所です。藤井寺(薬師如来)
この札所の見どころ
42歳の厄年を迎えた弘法大師が、自らの厄難を払い衆生の災いを除くためにこの地で17日間の護摩修法を行い、満願の証として五色の藤を植えたことが寺名の由来です。この藤は今も境内を彩り、春には紫・白・紅の花房が石段を覆うように垂れ下がります。本堂天井には江戸末期の画人・林雲渓が3年の歳月をかけて描いた30畳にもおよぶ雲龍の天井画が残り、龍の眼が参拝者をどこからでも睨むように見える迫力は、これから先の道行きに気持ちを引き締めてくれます。本尊の薬師如来坐像は平安後期の作で国指定重要文化財に指定されており、阿波の札所でも屈指の古仏です。境内奥の白龍弁財天は金運や芸事の上達を願う参拝者に親しまれ、芸能や商売に携わる人の参拝が絶えません。この寺は十二番焼山寺へ続く約12kmの山越え遍路道「遍路ころがし」の入口にあたり、平地の札所群から山岳的な巡礼へ移る節目の地です。阿波前半を締めくくる覚悟を整える場所として、強く印象に残るでしょう。十楽寺(阿弥陀如来)
この札所の見どころ
正式名は光明山蓮華院十楽寺。人間の八つの苦しみ(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)を離れ「十の光明に輝く楽しみを得よ」と弘法大師が願いを込めて名づけたのが寺名の由来です。かつては広大な七堂伽藍を誇りましたが、天正の兵火で焼失し現在地に再建された歴史を持ちます。治眼疾目救歳地蔵尊は眼病平癒のご利益で古くから信仰を集め、目の不自由な参拝者が回復を祈って訪れてきました。愛染明王は悪縁を断ち良縁を結ぶ霊験で知られ、恋愛成就だけでなく人間関係全般の悩みを抱える人に親しまれています。龍宮城を思わせる朱塗りの鐘楼門が参拝者を出迎え、その華やかさに一日の疲れも和らぎます。併設のビジネスホテル光明会館は遍路の宿泊にも対応しており、巡礼の旅を支える実用的な一面も持ちます。華やかなご利益と深い再建の歴史が同居する、阿波らしい魅力の濃い一寺です。夕勤行
この札所の見どころ
山号「温泉山」が示すとおり、大師が温泉療養の利益を伝えた旧跡で、今も大師堂前から温泉が湧くとされています。昭和37年、不治の病を宣告された婦人が遍路に出て安楽寺に参拝するうちに、みるみる快癒したという実話が残ります。快癒後、婦人は本尊を奉納してお礼参りをしたと伝わっています。境内の厄除霊木「さかまつ」は、猟師が放った矢を身代わりに受けた松を大師が逆さに植えたとされる霊木で、厄除の象徴として参拝者を守り続けています。多宝塔の内部には極彩色の仏画や彫刻が配され、浄土を視覚的に感じさせる空間が広がります。四国霊場で最初の宿坊として400年にわたり遍路を迎えてきた歴史も見逃せません。巡るだけでなく泊まって息を整える意味を実感できる寺で、夕勤行に参列してそのまま一泊します。夕食・宿泊
二日目
2026年6月14日(日)朝食
井戸寺(七仏薬師如来)
この札所の見どころ
白鳳時代に天武天皇が勅願道場として創建し、もとは「妙照寺」と称して七堂伽藍と末寺12坊を擁する壮大な寺院でした。弘仁6年(815年)に弘法大師が訪れた際、水不足に苦しむ村人を見かねて自らの錫杖で地を突いたところ清水が湧き出し、この地を「井戸村」、寺を「井戸寺」と改めたと伝わります。境内の「面影の井戸」は大師伝説の井戸そのもので、水面に自分の姿が映れば無病息災、映らなければ3年以内に厄災ありとされ、参拝そのものが強い記憶になります。本尊の七仏薬師如来は全国でも珍しい七体一組の形式で、七難即滅・七福即生の開運に厚い信仰を集めてきました。大師が訪問時に彫った高さ約1.9mの十一面観音像は国指定重要文化財です。「水大師」とも呼ばれる日限大師は、5日・7日と日数を限って日参すればご利益があるとされ、具体的な願いを抱えて通う参拝者に親しまれています。阿波10代藩主・蜂須賀重喜が寄進した仁王門も堂々たる構えで、二日目の出発にふさわしく身を清め気持ちを整えられる札所です。観音寺(千手観世音菩薩)
この札所の見どころ
千手観音を本尊とする住宅街の小さな寺ですが、霊験譚の迫力は随一です。大正2年、讃岐の高松伊之助という生まれつき盲目の男性が「どうか目が見えるようになりたい」と一心に願い、観音寺に日参して千手観音に祈り続けました。満願の日、伊之助は突然光を感じ、ついに目が開いたと伝わっています。この開眼の実話は新聞にも取り上げられ、以来「目の観音さま」として眼病に悩む参拝者が各地から訪れるようになりました。一方で戒めの話も残ります。嫁いだ先で姑をひどくいじめていた女性がこの寺に参拝した折、身につけていた遍路の白衣から突然火が燃え上がったとされています。火は女性の体には燃え移らなかったものの、白衣だけが焼け落ちたことで日頃の行いを深く悔いたと伝わり、その場面を描いた絵が今も本堂に掛かっています。境内の夜泣き地蔵は子どもの安眠にご利益があり、親子で訪れる参拝者が後を絶ちません。規模は控えめながら、救いと戒めの生々しい物語が凝縮された、忘れがたい札所です。常楽寺(弥勒菩薩)
この札所の見どころ
八十八ヶ所で唯一、56億7千万年後に衆生を救うとされる弥勒菩薩(未来仏)を本尊とする札所です。未来仏を祀るだけに、「いま」だけでなく先の時間まで見通すような落ち着いた祈りが似合います。境内に立つあららぎ(イチイ)の大木は大師ゆかりの霊木で、かつて大師がこの木の実を煎じて長年の消渇(糖尿の古称)に苦しむ老人に飲ませたところ、病が癒えたと伝わっています。この霊験から「あららぎ大師」とも呼ばれ、今も病気平癒を願う参拝者があららぎの前で手を合わせる姿が見られます。境内全体が自然の大岩盤でできた「流水岩の庭園」は他に類を見ない独特の景観で、四国霊場で唯一の児童養護施設「常楽園」が寺の慈悲を現代の福祉へとつないでいます。信仰と人を支える営みが静かに重なる、余韻の深い札所です。国分寺(薬師如来)
この札所の見どころ
聖武天皇の勅願によって建立された阿波の国分寺で、創建当初は七重塔を備えた壮大な伽藍だったと伝わります。本尊の薬師如来は眼病平癒の霊験で古くから信仰を集め、目の病に悩む参拝者が各地から訪れてきました。境内の烏瑟沙摩明王は「トイレの神様」として親しまれ、下半身の病にもご利益があるとされています。本堂には聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られ、国家鎮護の寺としての重みを今も背負う一寺です。最大の見どころは国指定名勝の庭園で、豪快な石組の枯山水は日本屈指とも評される美しさを誇ります。遍路の札所であると同時に、阿波の古代寺院の記憶をいまに伝える格の高い札所です。昼食
焼山寺(虚空蔵菩薩)
この札所の見どころ
昔この山には大蛇が棲み、山全体が火に包まれていたと伝わります。大師が真言の力で炎を鎮め、虚空蔵菩薩で大蛇を岩窟に封じ込めたのが寺名の由来です。山門をくぐると樹齢500年を超える杉の巨木群が参道の両脇にそびえ、平地の札所とは空気がまるで異なる霊気に包まれます。十一番藤井寺からの山越え遍路道はかつて「遍路ころがし」と呼ばれた四国屈指の難所で、歩き遍路にとって最大の試練とされてきました。この寺には「四国遍路の元祖」とされる衛門三郎の伝説も色濃く残ります。伊予の豪農であった衛門三郎が、托鉢に訪れた大師への施しを拒んだところ、8人の子が次々に亡くなったとされています。悔悟した衛門三郎は大師を追って四国を20周巡り、この焼山寺の麓でついに力尽きました。駆けつけた大師が「何か望みはあるか」と問うと「来世は河野家に生まれたい」と答え、大師は「衛門三郎再来」と刻んだ小石を握らせたと伝わります。のちに河野家に左手を握ったまま開かない男児が生まれ、僧が祈祷すると手が開いて中からその石が現れたとされ、石は今も51番石手寺の宝物として伝わっています。この物語は施しと悔悟、そして再生の教えとして、四国遍路が単なる巡礼ではなく人生をやり直す旅でもあることを象徴しています。境内奥の三面大黒天は福徳のご利益でも知られます。標高700mまで登りつめた先に広がる境内に足を踏み入れること自体が、第1回の巡拝における大きな達成感になるでしょう。大日寺(十一面観世音菩薩)
この札所の見どころ
弘仁6年(815年)、弘法大師がこの地で護摩修法を行ったところ、空から紫雲とともに大日如来が現れ「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げたことが寺名の由来です。かつては阿波の総鎮守・一宮神社の別当寺として神仏習合の信仰を担い、明治の神仏分離令により現在の独立した寺院となりました。本尊は十一面観音ですが、大日如来の縁起が寺の個性を強く形づくっています。戦国時代の兵火で被災したのち、蜂須賀光隆の手で本堂が再建されました。樹齢100年超の巨木のそばに立つ「しあわせ観音」は、合掌した両手のなかに蓮と小さな観音像を抱く極彩色の姿で、参拝者に穏やかな幸福を願わせます。本堂脇の「ぼけ封じ観音」と、東へ約700mの奥の院・国中寺はお年寄りへの祈祷で知られ、高齢の家族を思って参る方も少なくありません。都会近郊の札所ならではの親しみやすさと、古い信仰の層の厚さが同居する一寺です。恩山寺(薬師如来)
この札所の見どころ
大師の母・玉依御前は、讃岐の善通寺から遠路はるばる息子に会いにこの地までやってきたと伝わります。しかし恩山寺は女人禁制の山。大師は母を迎え入れるため、境内の奥にある「花折り岩」の滝で7日間にわたる水行と女人禁制を解く秘法を修め、ようやく禁を解いたとされています。入山を許された母はこの寺で剃髪し出家を遂げ、その髪は今も「玉依御前の剃髪所跡」に大切に安置されています。山号「母養山」・寺名「恩山寺」は、母の恩に報いるという意味を込めて大師自らが改めたものです。大師が四国を巡るにあたり、母への想いから寺の戒律そのものを変えたこの逸話は、遍路を語るうえで欠かせない物語として長く語り継がれてきました。境内の県天然記念物・びらん樹は大師が母のために植えた記念樹と伝わり、赤い樹皮がひときわ目を引く霊木です。また、本堂左手に安置される毘沙門天は、阿波を治めた武将たちも戦勝を祈った武運の仏として知られます。阿波十八ヶ寺の締めくくりとしてこの寺を訪れると、遍路が功徳を積む旅であるだけでなく、恩や慈しみを一歩一歩たどる道でもあることが静かに心に響きます。第1回の巡拝の結びにふさわしい、余韻の深い札所です。徳島駅降車
帰着
今後の日程
第二回以降も、どの札所を巡るのかが分かるように、各回の行程を札所名まで記しています。
第2回
19〜30番 / 阿波後半から土佐へ阿波の結びから室戸を経て、高知市内へ入る二日間です。
第3回
31〜40番 / 高知市内から足摺へ第4回
41〜50番 / 南予から松山へ山深い札所から松山平野へと移り、伊予の表情が切り替わる回です。
第5回
51〜65番 / 道後から伊予西条、四国中央へ松山の札所群から西条、伊予三島へと進み、伊予の札所を広くたどる回です。
第6回
66〜80番 / 讃岐西部から坂出へ讃岐の札所を連ねながら、弘法大師ゆかりの寺々を集中的に巡ります。
第7回
81〜88番・高野山奥の院・高野山金剛峯寺 / 高松から結願、そしてお礼参りへ高松周辺の札所を経て大窪寺で結願し、どこかに一泊して高野山奥の院と高野山金剛峯寺へ向かう予定です。宿泊先は未定です。