史料
《平等寺由来记》是昭和时期由住持谷口眞梁根据历代口传的教示与记忆整理而成的文本。本页以三层方式阅读各段:简短导读、易懂的中文译读,以及日文原文。
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记录平等寺的开端、信仰、重建,以及将这一切传给后世的愿望。
由来记并不是单纯的编年史。它将弘法大师开创传承、药师如来的疗愈力、白水山与日光院等名称的意义、战乱后的复兴,以及后世僧侣的重建工作,作为一条连续的水流讲述出来。
尤其重要的是,它并非外部说明,而是寺院内部保存的记忆被写成文字。因此,它既是历史资料,也是平等寺理解自身身份的见证。
原文文体较为古雅,本页先提供每一段的简短导读,再给出易懂的中文译读,最后列出原文,使读者能同时把握意义与史料质感。
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由来记不是从地理位置开始,而是从神圣瑞相开始。平等寺通过确认此地灵性的奇迹,说明自身开端。
平等寺,正式号为白水山日光院,被介绍为弘法大师开创的四国遍路第二十二番札所。
弘仁五年(814年),据说弘法大师登上北方山中,宣称若此地真是密教应当弘布之地,就应出现相应瑞相,并投下一朵金色莲花。莲花挂在古老大松的枝头,向四方放光,仿佛诸佛亲临。
夫此平等寺は本朝真言宗根本高祖弘法大師の開基に係る四国第弐拾弐番の霊場にして「白水山日光院」と號す。今其由来を尋ぬるに人皇第五拾弐代嵯峨天皇の御宇弘仁五年甲戌(814年)三月中旬、大師此地に巡錫あって伽藍創置の地相を見給ひ、北荒田野の山に登り給ひて「此處密教流布感應の地たらんか宜しく奇瑞を現ずべし」と閻浮提金の蓮華を投げて試み給へば一大古松の枝に懸りて八方に輝きたり。其様諸佛の来迎あって一斉に白毫の光を投つに似たり。
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这是由来记的核心段落。本尊、寺名与开创故事在这里被结为一次完整的显现。
受此瑞相感动,弘法大师进入深定。空中出现圆光,其中琉璃色种子字化为药师如来,并宣说将平等除去一切众生之苦。
弘法大师于是以一刀三礼的敬谨方式雕刻药师如来、日光菩萨、月光菩萨与十二神将,建立七堂伽蓝,并因光明莲花所示的平等利益誓愿,将寺名定为平等寺。
大師之に感じて夢幻に入り誦行三昧。時を移すに空中忽ち圓光蓋の如くに現れ光中瑠璃の鑁字を顕し而して薬師如来となり「我衆生の苦を醫し去ること平等不偏なるべきぞ」と五色の光明を放って大師を照觸したりと見給ふ。
此に於て大師慇誠を凝らして一刀三礼の薬師如来及日光月光十二神将の尊像を刻み給ひ七塔伽藍を起して宣ふ。 「夫れ松上の蓮華八方に輝くもの是平等利益の弘誓の徴宜しく寺を平等と称すべし」と。 是當院濫觴の模様にして蓮華の懸かり松は今山上に在する蓮華の松の前身なりと。
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这一段通过地名保存记忆。即使旧建筑已经不在,景观本身仍保留早期山寺的轮廓。
由来记说,旧伽蓝曾从今日寺院东侧延伸至周围山地,莲池、经塚、护摩谷、塔原、堂床等地名仍被记忆。
作者由这些名称推断,弘法大师开创的寺院,曾是一座广大而庄严的山林伽蓝。
當院の寺域は今の寺院の少しく東に本坊屋敷。次に「蓮池」と称する処あり。此処を起点に山中西には「経塚」並びに「護摩谷」と呼ぶ処あり。此は大師護摩修行の𦾔跡なりと傳へられぬ。其次西に「塔ヶ原」。尚拾町許り隔てて仁王門の𦾔跡、今に「堂床」と傳えられぬ。其尾を「仁王ヶ谷」といひ、又東東方八町程の地点に鎮守祗園十二社権現の在りし処あり。此地は本尊の𦾔跡なりと口碑に遺りて、廣く平等寺の地称を起せり。此等の点より察するときは、大師草創時代に於ける山岳寺院の髙顕輪奐荘厳の程大に思ひ遣らるべし。
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由来记将药师如来的疗愈力呈现为今日祈祷仪礼的基础,而不是封存在过去的传说。
即使寺院迁至今日所在地,弘法大师所刻药师如来仍安置在本堂为本尊,并被信为能疗愈人天众生的种种痛苦。
因为这份无形护佑从未改变,由来记说明此山持续传承除病厄的祈祷。它还记载后鸟羽天皇时期,曾派遣敕使到此寺与药王寺修厄除祈愿。
其後今の処に移りて庭園寺院と化したるも、大師御作の薬師如来は依然本堂本尊として人間天上有漏の苦患を醫せさせ給ふ。利益冥護は昔も今も変ることなし。是れ本山に萬病調伏厄除祈願の㳒ある所以なり。人皇八十二代後鳥羽院の時に至りて此霊験を聞食し、厄除祈願の為本山及び日和佐の薬王寺へ勅使を下らせ給ひしと傳へられたるこそ有難けれ。
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山号通过水来说明,正如寺号通过平等疗愈来说明。圣水与寺院身份在此不可分离。
开创之初,弘法大师为了取得加持水,以五钴杵击石,于是涌出白如乳汁的泉水。
这成为山号白水山的由来。后来此水被称为加持水,被敬为对虫害与火灾有灵验,水量不增不减,并如明镜般映出上方圣字。
又大師草創の始、加持水を得られんが為獨鈷を以て山崖を穿ち給へば、霊泉噴出して白水乳の如し。是れ白水山の起原にして後世之を「加持水」と称し、蟲除火除に霊験あり。其水始終増すことなければ減ることもなし。是亦平等の象にして天井の鑁字は水に映りて鏡の如く誠に奇妙の霊泉なり。
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若白水山是水的瑞相之名,日光院就是光的瑞相之名。寺院命名充满象征。
一天早晨,弘法大师站在泉边汲取圣水时,灿烂日光映在水面上,照亮了境内。
这成为日光院之名的由来。那巨大的光明被理解为十一面观音的显现,观音随后被安置为方丈本尊。
大師一朝加持水を掬はんと欲し給ひ出でて泉頭に立ち給ふに、灼々たる日光水に映して大光普く院中を照らす。是れ「日光院」の始因にして大光普照は十一面観世音菩薩の象なり。是より方丈の本尊を十一面観世音と定めさせられ給ふなり。
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由来记不只说明药师信仰,也细致说明十一面观音在寺院多层信仰世界中的位置。
传承中的十一面观音像,据说从海中放大光明而出,象征照耀十方、如大海般无分别摄受众生的慈悲。
其面相表现慈悲、忿怒与通达智慧,顶上佛被视为正法如来。由这些因缘,由来记说观音能守护水火、安产、除灾,并赐福延命。
現在存する本尊は往昔大光を放ちて大海より出現まし〳〵たりとかや。其大光を放ちて大海より出てたりといへるは、此本尊普く両儀を照して大海の容ること限なきが如く弘く衆生を救ひ度して漏らさざるの謂なり。
此本尊前の三面は慈悲。左の三面は忿怒。右の三面は牙を上にし給ひて、善を見ては喜び悪を見ては嘲り笑ふの相を現し、本体正面は不笑不瞋にして善悪不二なり。又頂上の一佛は「過去正法明如来」之を對果形因といふ。 斯る因縁を以て水難火難を免れしめ子安守護の本尊として其厄難を免れしめて福壽延命を與へ給ふ御誓願なり。斯る佛德利生の程は薬師如来を相待って實に萬代不易なるべし。
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这一段显示平等寺的形象并不局限于寺内传承。它的核心象征也被外部学者认识并赞颂。
1732年,阿波学者藤田甫卿在《四岛随方录》中写到平等寺,并把日光院之名织入汉诗。
诗中赞叹此寺为慈悲誓愿无分别救人之处,也赞叹清净月光显露琉璃光明的真实。
去れば享保十七年壬子(1732年)五月良辰、阿刕の名儒杜多普謃の如きも自作の『四島隨方録』中に霊場弐拾弐番白水山平等寺と題し日光院を轉句に挟み、
平等度来悲願力 迷津何問有疏親 日光院裏月光浄 照見瑠璃上玅真
と讃詠せられたり。是中興二世槐翁㳒印の﨟中なりき。
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这里由来记从药师信仰扩展到另一条修法传统,显示平等寺是抵御灾厄的密教道场。
御影堂中的弘法大师像,被说具有显著灵验;寺中密教星供,则追溯到弘法大师在胜浦郡星谷修七日大护摩。
当不祥星出现时,一颗落下成为星之岩屋的由来,另一颗向东南飞去留下取星寺的记忆,第三颗则落在平等寺。
御影堂の本尊髙祖弘法大師の尊像靈験亦顕著にして當院殊傳の星供の秘㳒と共に長へに傳はるべし。抑當院星供の秘㳒は大師未だ傳燈大阿闍梨位空海大和尚にておはせし頃、勝浦郡星谷の山中大巖窟の下に於て七日の大護摩修行の際、悪星三方に現はれたるを大師法力を凝らして祈り給へば、其一其地に落ちて「星の岩屋」の由来を留め、其一飛んで東南本郡岩脇邑に至り「取星寺」に名殘を遺し、其一西南此地に来って當寺に落ちぬ。
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星供通过天皇故事来呈现,显示寺院仪礼权威被想象在非常宏大的尺度上。
由来记说,后来后小松天皇患病时,此秘法奉敕修行,并立刻显现灵验。
它还说,落下的星体经历数百年逐渐缩小,最后小到可以置于掌中,作为寺宝保存,直到某时失传。
是より星供の秘法は起りて、後小松天皇御悩の御時勅命あって此秘法を修し祈願し奉りしに、効験忽ち現れ叡感斜なうざりしと傳へらる。斯して上記の夭星は許多の年処を経るに随ひ漸々縮小して掌上に捧げ得るに至り長く當寺に重寳たりしに何時の世となく失せたりぬは千歳不摩の恨事なりと古文書類に遺れるのみ。
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失落之物的重新发现,在这里不只是找到遗物,而是寺院神圣历史重新显现的征兆。
虽然星供几乎从公众记忆中淡去,由来记说1923年编纂地方町史时,在调查古文书与寺宝的过程中,于地板下发现了埋藏的星石。
作者说,那份发现的喜悦难以言表。
随って星供の秘法も殆ど世人に忘れらしに、今茲に大正拾弐年癸亥(1923年)八月中伏『新野町志』編纂の事あり。院中の古紀錄什物調査の砌、之が床下の土中に埋れ在りしを散見したり。貧道の悦何んぞ之に加えんや。
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“平等”一词在这里再次成为连接修法力量、寺名与御咏歌的关键。
星石的再发现被称为寺院复兴的吉祥征兆,使秘法能够以完整形态传给未来。
由来记接着说,这一修法所带来的平等利益,应与弘法大师的御咏歌一同理解;其意即平等慈悲的佛深可依凭,令人感恩。
是洵に當院隆興の祥兆にして、星供の秘法は是より完全旦永世に傳へ得るなり。此秘法の信者に及ぼす功徳は一切平等なる事大師の詠歌と相待って知る可きなり。
平等に へだてのなきと 聞く時は あらたのもしき 佛とぞ見る
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由来记不只是关于奇迹与建筑,也记录寺院如何定位自己的教法谱系。
由来记说,平等寺自弘法大师开创以来,便属于根本道场高野山。
即使后来有与觉鑁相关的宗派纷争与法脉争议,平等寺仍被描述为不被动摇、延续古来真言传承的寺院。
抑ゝ當院は高祖弘法大師の開基以来、根本本山髙野に属し、白河堀河両帝の頃根来の覚鑁新義を興し、應永年中野山の塔中宝性院宥快、無量壽院長覺、其学敵し反目したるも攪乱せらるる事なく古義一徹の燈脈なり。
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这一段将视野扩展到寺院之外,显示平等寺故事被理解为高野山大历史的一部分。
织田信长威胁高野山时,僧侣被捕、寺领被没收,并据说有大军被派往山上。
由来记说,翌年在山王院修调伏法,之后信长被明智光秀所杀,威胁消散。此事被解释为弘法大师与诸神的冥护。
然るに天正年中、織田信長不法の振舞あって野山に敵し、遂に同山の僧黨一千三百八十三人籠舎に及び、天正九年(1581年)九月晦日、近江國安土市の外京都・七条河原・伊勢蜘津河原三ヶ処に於、而悉く成敗誅戮仰付られ寺領殘らず召上げられ、剰へ野山討滅の大軍をさへ向けられたれば衆徒行人是非なく戦場に及ばれ、翌年(1582年)五月以の外、御社山王院に於て調伏致され候処に、六月信長明智日向守光秀の為に弒せられ軍勢此に至りて離散したりき。是皆大師明神代々御願の天子冥罰なり。
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即便是武将经过寺前,也在这里被讲述为对祈祷与本尊的敬畏,而不是单纯的兵火破坏。
虽然后世有说法称寺院遭长宗我部破坏,由来记否定这一版本。它说元亲经过寺前听到祈祷声,便下马礼拜。
据说他含泪祈愿,无论成就志业,还是被阎魔召去,寺中本尊与弘法大师都能以大愿之船引导他。
此時一山の衰替末院の荒敗言語同断。當院亦打撃を受けて傳燈将に消へなんばかりなりしに長曾我部乱入の事ありて、寺院大半兵火に罹り當院亦然りと傳ふ去れども、是皆訛傳にして元親の當院を過ぐるや経行祈願の聲を聞き、忽ち下馬して拝伏したる後、「我若し志を得んか靈跡復興の事に従はん。武運拙く閻魔の廰に至らんか本堂方丈の本尊當山開基の髙祖大師引いては阿修羅明王弘誓の舟に導き給へ」と落涙潜々鎧の袖を濡らして去れりと。 是を「堂塔焼かれて禦ぐに術なく辛うじて本尊の不思議に兵火を免れたり」とか「紫雲に乗じて逃れたり」とか傳ふる縁起に比ぶれば人夫れ以て如何となすや。
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这一短段像一道门槛,宣告故事即将从衰微转向漫长的复兴工作。
战乱之后,特别到蜂须贺氏入国阿波之时,整个四国遍路都已衰微,平等寺也陷入荒废的谷底。
然りと雖も戦國以降、蜂須賀入國始にあっては四國霊場一般に衰へ當寺の如きも衰替其極に達しぬたりき。
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照俊是由来记后半的中心人物。复兴从一位僧人看见荒废圣地并决意不让它继续荒废开始。
1677年,一位在伊予兴隆寺剃度的僧人带着数名随从来到平等寺。他看见圣地荒废、只剩草庵,便决意复兴。
由来记将他称为照俊法印,复兴时代的第一世住持。
然るに人皇第百拾七代靈元天皇の御宇延宝五年丁已(1677年)春三月、豫州桒村郡古田村渡邊孫兵衛の一子にして同郡足摺山光隆寺に入って得度し得たる一僧、数人の家来を隨へ當寺に来る。此時先住權大僧都宥染存命中なりしも、靈跡荒頺草庵に等しかりき。其僧之を歎きて遂に復興の業を誓ふ。之を當山中興一世の聖僧、權大僧都照俊法印なりとす。
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这里重要的不只是照俊重建了建筑,而是他把复兴定位为涉及建筑、仪礼与传承的多世代责任。
照俊整备境内,1683年重铸梵钟,1706年建立山门,1722年建立本堂。他于1725年八十岁圆寂,并郑重托付未来。
他的遗言劝告后世住持不要停止营造,要建立新本堂与御影堂,继续复兴方丈与库里,并复兴自弘法大师以来一度中断的仪礼。
其後、法印境地経營堂宇再建の業を興し、天和三年癸亥(1683年)四月吉日洪鐘を再鑄し、宝永三年丙戌(1706年)仲春樓門を興し、享保七年壬寅(1722年)八月本堂建立の後、享保拾年乙巳(1725年)霜月七日法﨟四拾五年壽齢八拾歳にして慇懃に後事を囑して遷化したりき。 其時遺命に曰く「願はくば師々服膺し第々積集して造立絶ゆべからず。新に本堂を造立し我が建つる処の堂は銅の瓦を葺きて髙祖大師の御影堂となすべし」と。即ち銅製巴唐草の雛形を製し置かれぬ。 又曰く「方丈庫裏も往古の伽藍に等したらしむるを期せよ。尚、髙祖大師後絶えたる行事は時至って復興すべし」云々と。
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这一短段显示意志从一代传向下一代。复兴并未止于一人的努力。
下一任法印槐翁承接照俊遗训,开辟寺后山地,并于1737年建立新的药师堂。他于1743年六十一岁圆寂。
次の法印槐翁上人遺命を奉じて後山を穿ち、元文弐年丁已(1737年)三月新に薬師堂を造立し、寛保三年癸亥(1743年)二月弐拾九日六拾壱歳にして遷化したり。
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复兴的中心不只是建筑,而是把本尊重新安置在活生生的信仰场所中。
槐翁弟子慧灯继承寺院,于1744年修药师如来迁座法会,之后整备方丈与库里。他于1776年五十六岁圆寂。
其遺弟慧燈法燈を承けて、其翌寛保四年甲子(1744年)二月二十八日、薬師如来入佛供養を遂げ尋て方丈庫裏を経營し、安永五年丙申(1776年)九月弐拾八日五拾六歳にして遷化しぬ。
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仪礼实践的恢复,紧随建筑复兴而来。平等寺再次成为实际修祈祷的场所。
无为时代,依照照俊的样式制作铜瓦,重建大师堂,并完成护摩堂。
他还推动五谷丰登、民众安稳、海上安全的祈祷,复兴大规模护摩与诵经,使寺院再次契合弘法大师的圣业。
其遺弟權大僧都無為の世に至りて、安永八年己亥(1779年)正月中興照俊遺す処の雛形に則り、銅の瓦を造りて大師堂を再營し、倶に護摩堂造立の功満ちぬ。尋て五穀豊熟万民快楽海上無難船人安全の祈願を普し千日千坐の護摩修行普門品誦讀の行事を起して髙祖大師護摩修行の昔に迎合したりき。
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药师如来开帐的复兴,被视为平等寺功德广为人知的重要转折。
1792年启盘时代,中断已久的药师如来开帐恢复,连续五日举行,并为后世留下范式。
第一日为御影堂修曼荼罗供,中日开八祖,结愿修流水灌顶回向万灵。由此,药师如来除厄功德广泛传扬于世。
以上四世の後、中興五世權大僧都啓盤の世に至りて、寛政四年壬子(1792年)三月四日以降五日間、久しく絶えたる薬師如来開扉の行事を復活して後世に範を垂れたり。其初日「為御影堂供養大曼陀羅供」、中日「八祖開眼供養」、結願「為㳒界萬靈流水灌頂修行」。是より厄除薬師如来の開帳利益は世に知られ渡りぬ。
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这一段显示复兴不仅由僧侣承担,也由在家信众的誓愿与奉纳支撑。
宪翁于1822年建立御影堂,并于1824年举行上梁。
由来记还说,今日寺中保存的大般若经,正是在此时由信众发愿完成。
中興八世權大僧都憲翁は、文政五年壬午(1822年)閏正月四拾八歳の時御影堂を造立し、同暦七年甲申(1824年)四月廿一日上棟式を擧げたり。今當院に匨する『大般若』は當時信者の発願に依りて成りたるものなり。
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虽然简短,这一段显示仪礼随时间累积,并逐渐形成寺院至今记忆中的形式。
从这一时期起,药师如来开帐中定期加入大般若经转读。
由来记说,这一习俗始于仪陶上纲1828年举行的七日开帐。
是より後、薬師開帳の會中「轉讀大般若修行」を加ふるを以て例とするに至れり。其之を始めたるものは、中興拾世儀陶上綱文政十一年戊子(1828年)三月二日七日間開扉の砌なりとす。
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由来记既实际又具信仰性。它保存的不仅是重大传说,也包括后世住持修理的钟、殿堂与寺宝记忆。
第十一世等我以精通密法著称。第十二世等𦬅于1840年重铸梵钟。第十三世西宥贤于1884年建立阎魔十王堂并同年上梁,还进行了铸造铜莲水盘等事业。
这些记述共同呈现出延续到近代的维护与重建长链。
中興十一世等我大和尚は秘法に精通して宙を歩みたりと噂せられ、十二世等𦬅和尚は天保十一年庚子(1840年)四月十有六日、中興鑄造の洪鐘を改鑄して今に遺し、中興十三世少僧正西宥賢大和尚は、明治十七年壬申(1884年)春日閻魔十王堂造營同年四月拾五日上棟式を擧げられ、其後蓮華の青銅浄水鉢を鑄造し建設する等種々の経営をなして今日あるに至りたり。
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这是重要提醒:寺院的仪礼生活不只面向个人疾病,也面向共同体危机与守护。
由来记说,平等寺还保存着弘法大师传来的秘密法——阿修罗尊护摩。这是通过供养阿修罗来降伏恶魔与强敌的修法。
蒙古来袭的1281年,寺院据说奉敕连续七日七夜修此法,第七夜暴风骤起,敌船随之沉没。此后,国主也委托此法祈求武运与国家安泰。
當院又大師修法の「阿修羅尊護摩供」の秘事あり。 此法たるや、梵天帝釋と闘ひたる猛神阿修羅王に回向して悪魔刧敵調伏の効を奏す。昔人皇第九十一代後宇多天皇の御宇弘安四年(1281年)の夏、元奴入寇の時敕命あって諸國の寺院神社刧敵退散の祈を凝らしし砌、當院にあっては七日七夜此法を謹修したるに七日の夜に至りて暴風俄に吹起りぬ。是れ方に元寇海に沈みたりし刹那なりしと。是より武運長久國家安泰の祈願の為には世々の國守之を修せしむるに至れり。 彼の元親が當院を過ぎんと欲して拝伏したるは此修行の最中なりしと。以て今日國運彂展軍人安穏等の軍事的祈願に移すを得べし。
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由来记把在家信众的信仰也视为寺院自身历史的一部分,而非外在附属。
由来记举出一位信众从身体痛苦转为欢喜,并流泪抄写药师经的事迹,作为旧时信仰深厚的证明。
它还说,与照俊法印同来者的后裔仍留在当地,显示围绕寺院的人之谱系,本身也是被传承下来的内容。
以上の外、往昔信者の信仰念力如何を知るべきものには、肉躰の病苦は随喜の涙と化して浄冩し遺せる『佛説薬師如来本願経』の在するあり。中興照俊法印の形見として見るべきものには率い来りし従者の子孫河野槇山等の存するものあり。
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结尾清楚显示,由来记本身就是传承之作。它把圣地与记录的责任交给后来者。
眞梁写道,重新发现长期埋没的历史与寺宝,使他体会到自己与此地因缘之深;自己为守护圣地所作的祈祷与劳作,也不过是对弘法大师和历代中兴祖师的一点报恩。
最后,他劝后世住持切勿惜力于修理与续持,并将这部记录留在真如月光之下,愿寺院与记忆得以长久延续。
殊に久しく埋れたりし来歴重寳等の今に至りて再現したるは貧道の宿縁如何を悟るに足る。是れ貧道が益丹誠精祈を凝らして永く靈跡を失墜せしめざるは開山髙祖弘法大師、中興法印照俊先師に對する報恩萬分一の微衷にして、亦後毘師弟の深く服膺すべき処なりと真如の月の光の下に謹記し置きて、今後當院に住職たる者、修補續稿の勞を惜む勿れと囑望する事如件。