その一
お一人で十分だから
ひとつの世界は、一人の仏さまで、すべての人をみちびくのに足りています。だから二人目はいりません。
本堂のお薬師さま、阿弥陀さま、観音さま、お地蔵さま、お不動さま、そして真言宗なら大日如来。日本のお寺をめぐると、いくつもの仏さまの名に出会います。「仏教は、こんなにたくさんの仏さまを拝むのか」「どれがいちばん偉いのか」。そう戸惑う方は、少なくありません。
この多さには、はっきりした理由があります。しかもその理由は、たった1つの、とてもシンプルな考え方からたどれます。それが、これからお話しする「一仏一国土」です。むずかしい言葉に見えますが、中身はやさしい。順を追っていきましょう。
話に入る前に、言葉を2つだけ覚えてください。仏教には、大きく2つの流れがあります。「部派仏教」と「大乗仏教」です。
お釈迦さまが亡くなって長い年月のあいだに、仏教は、大きく2つの流れに分かれていきました。1つ目の部派仏教は、お釈迦さま直伝の教えを、ありのまま、厳格に守り伝えてきた、古い流れです。いまのスリランカ・タイ・ミャンマーに伝わる上座部仏教が、その代表です。
もう1つの大乗仏教は、少しのちに興った流れです。出家した人だけでなく、生きとし生けるすべてを、ともに救おう、と大きく願いました。中国や朝鮮半島を経て、日本に伝わった仏教は、すべてこの大乗。私たちがお寺でお参りする仏教も、大乗仏教です。
覚えておくのは、これだけです。「部派仏教は、古い流れ。大乗仏教は、のちの、広い流れ。そして日本の仏教は、大乗」。この2つの名前が、これから何度も出てきます。
1つの世界に、同じ時に、二人の仏さまが現れることはない。
いま見た部派仏教も、大乗仏教も、この決まりだけは、同じように受けついできました。「1つの世界に、仏さまはお一人」。ここは、どちらも変わりません。
では、なぜ仏さまは、お一人で足りるのでしょう。昔の人は、これを王さまにたとえました。1つの国に、王さまは一人いれば、国は治まります。もし二人が同時に立てば、どちらに従えばよいか分からず、かえって争いのもとになる。仏さまも同じで、1つの世界をみちびくには、お一人いれば十分なのだ、と考えたのです。
決まりは同じでも、ここから仏教は、大きく2つに分かれます。分かれ目は、たった1つ。世界はこの1つだけと見るか、それとも、無数にあると見るか、です。
「1つの世界に、仏さまはお一人」。この決まりは、どちらも変わりません。変わるのは、世界をいくつと数えるか。1つと数えれば、いまの仏さまもお一人。無数と数えれば、そのひとつひとつに仏さまがいて、仏さまも無数になります。
同じ1つの決まりを、世界の数で裏返しただけ。それだけのことが、お釈迦さまお一人を仰ぐ仏教と、阿弥陀さま・お薬師さまをはじめ、数えきれない仏さまを仰ぐ仏教とを、分けました。その2つを、順に見ていきます。
世界の数で、仏教は分かれる
古くからの部派仏教(上座部・説一切有部・正量部など)は、世界を「この1つだけ」と見ました。
いまこの時に世においでになる仏さまは、お釈迦さまただお一人。ほかの世界のことは、説きません。お釈迦さまは、2500年ほど前、インドに実際にお生まれになり、さとりを開かれた歴史上の人物。その教えを、ひたすら受けついでいく。すっきりと厳格な、一仏の仏教です。
ここは勘ちがいしやすいので、ていねいに見ます。「世界」という言葉には、大きさのちがう入れ子があります。いちばん小さい単位は、中央に須弥山がそびえ、まわりを大陸と海がめぐる、1つのまとまり(小さな世界)。この小さな世界を10億あつめた、とほうもなく大きなひとかたまりが、三千大千世界です。
一人の仏さまが受けもつ「1つの世界」とは、この三千大千世界のことです。10億の小さな世界を束ねて、ぜんぶで「1つの仏さまの国土」、すなわち一仏刹と数えます。10億あっても、ばらばらの10個の国ではなく、まとめて1つの国、というわけです。
私たちの住む、この三千大千世界には、娑婆世界という名があります。そして、娑婆世界 ぜんたいの、ただ一人の教主(=みちびき手の仏さま)が、お釈迦さま。世界が小さいから仏さまがお一人なのではありません。10億の小世界をふくむ、これほど大きな1つの世界(娑婆)を、お釈迦さまお一人で受けもっておられる。これが「1つの世界に、仏さまはお一人」の意味です。
この三千大千世界の成り立ちは、部派の文献がくわしく説きます。正量部に伝わる漢訳『立世阿毘曇論』も、小千・中千・大千と世界をかさね、大千世界の隅々まで仏さまの光が満ちる、と説きました。そのうえで、南に伝わった上座部は『論事』で、北で栄えた説一切有部は『順正理論』で、「いま、ほかの世界にも仏さまがおられる」という説を、はっきり退けます。世界はこの1つだけ。だから、いまの仏さまも、お釈迦さまお一人。すじが通っているのです。
「1つの世界」の大きさ
小さな世界を1000倍し、また1000倍、さらに1000倍。
大乗仏教は、世界を「数えきれないほどあって、そのうちの1つ」と見ました。
夜空の星の数ほど、いえ、それよりもっとたくさんの世界がある。そのひとつひとつが、それぞれ三千大千世界の大きさをもち、それぞれに、それぞれの仏さまがおられる。私たちの住む娑婆世界にはお釈迦さまお一人だけれど、西のかなたの極楽には阿弥陀さま、東のかなたの浄瑠璃にはお薬師さまが、いま、げんにおられる、と考えたのです。
ここで、はじめの疑問(お寺には、なぜこんなにたくさんの仏さまがおられるのか)に、答えが出ます。日本のお寺で出会う仏さまは、もともと、それぞれが別の世界の主。阿弥陀さまは極楽、お薬師さまは浄瑠璃、阿閦さまは東方の妙喜世界の仏さまです。世界がちがうので、同時においでになっても、矛盾しません。
では、なぜ その別世界の仏さまを、この娑婆のお寺でお参りできるのでしょう。ほかの世界の仏さまが、この世界の人びとを救うために、仮のお姿をとって、この世にあらわれてくださる(示現)からです。だからこそ、別の世界の主でありながら、阿弥陀さまもお薬師さまも、いま、私たちの目の前のご本尊として、おはたらきになります。お寺の仏さまの多さは、無数の世界の仏さまが、この1つの世界へ手をのべてくださっている、そのあらわれなのです。
大乗の経典は、この多くの仏さまを、いきいきと描きます。『無量寿経』が極楽を、『薬師経』が浄瑠璃を、『阿閦仏国経』や『維摩経』が東方の妙喜世界を、『法華経』が十方から集まる分身の仏とはるか昔からの永遠のお釈迦さまを、『賢劫経』が次々に現れる千の仏さまを、『悲華経』が、めいめい別の世界で仏になる修行者たちを説きます。
「世界は無数」という見方は、やがて、もう一歩先へ進みます。
無数の世界に、無数の仏さま。ならば、そのすべてをつらぬいて、いっぱいにゆきわたる、一つの仏さまがおられるのではないか。こうして大きく描かれたのが、『華厳経』の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ。盧舎那仏ともいい、奈良の東大寺の大仏さまが、この仏さまです)です。あまねく照らす光のように、数えきれない世界のすべてを、お身体とする仏さま、と説かれます。
この仏さまの世界は、じっさいに目で見ることができます。さきほどの奈良・東大寺の大仏さま(盧舎那仏)の台座です。大仏さまが坐す、大きな蓮の花。その花びらの一枚一枚に、毛彫りで、須弥山や天界が線で描き込まれています。これが、『梵網経』の説く世界の絵そのものです。経はこう説きます。盧舎那仏が、大きな蓮の花の台に坐す。花びらの一枚一枚が、それぞれ一つの世界。その一つずつに、お釈迦さまがあらわれて仏になる(「一花百億国、一国一釈迦」)。1つの世界にお一人、という決まりは、ここでもそのまま。そして、その数えきれない釈迦は、みな盧舎那仏お一人のお身体(「盧舎那本身」)。無数の世界をぜんぶ束ねた、一枚の蓮の花。その主が、盧舎那仏です。
この盧舎那仏を、密教はさらに深めて、大日如来と呼びます。「大日」とは「大いなる毘盧遮那(摩訶毘盧遮那)」のこと。大日如来は、「1つの世界にお一人」という決まりの“外”にいる、例外の仏さまではありません。むしろ、その決まりを、いちばん大きな世界(あらゆる世界の全体)にまで広げたときの、その一仏。あらゆる処、あらゆる時に満ちて、たえず教えを説きつづける、法界(=世界のすべて)そのものをお身体とする仏さまです。
ですから、目の前のお釈迦さまと、大日如来とは、べつべつの仏さまではありません。『観普賢経』は「釈迦牟尼を毘盧遮那と名づけ、あらゆる処に遍し」と説きます。法界に満ちるまことのお身体(法身)が大日如来。それが、私たちの世界に応じて示してくださったお姿(応身)が、お釈迦さま。同じ仏さまの、2つの見えかたです。真言宗が新しく作り出したのでもありません。華厳の、世界のすべてをつらぬく盧舎那仏を、お大師さまが、自ら教えを説く法身の仏として受けとめなおしたのです。
「1つの世界」をどこまでと見るか
日本に伝わったのは、この大乗仏教でした。だから、日本のお寺は、仏さまでいっぱいなのです。
別の世界においでになる阿弥陀さま、お薬師さま。すべての世界にゆきわたる大日如来。歴史のお釈迦さま。これらが1つの伽藍に、ともにおまつりされていても、矛盾しません。「世界の数だけ仏さまがいる」という大乗の見方の上に、日本の仏教は立っているからです。はじめに戸惑った「仏さまの多さ」は、この広やかな世界観のあらわれだったのです。
四国八十八ヶ所をめぐると、札所ごとに本尊はさまざまです。薬師如来、大日如来、観音さま、お地蔵さま……。そのひとつひとつにお参りすることが、そのまま「世界の数だけ仏さまがいる」という、この広やかな世界観の中を歩くことでもあります。
平等寺は、高野山真言宗のお寺であり、四国八十八ヶ所の第二十二番札所でもあります。真言宗は、すべての世界にゆきわたる大日如来を、いっさいの仏さまのみなもと、すべての徳をそなえた普門総体として仰ぎます。そのうえで本尊には、その全体のうちの1つの徳をあらわす一門別得の仏、東方浄瑠璃のお薬師さまをおまつりしています。
さらにお大師さま(弘法大師空海)は、即身成仏を説きます。仏さまは、はるか遠くの別世界にだけおられるのではない。私たち一人ひとりが、もとから大日如来とひとつにつながっていて、手を合わせ、真言をとなえ、心を仏さまに向ける行い(三密)のなかで、この身のままで仏さまのいのちに触れていく、というのです。
「仏さまは何人か」という問いは、やがて「私の心の奥に、どのように仏さまを見いだすか」へと、深まっていく。
ここからは、もう少し深く知りたい方へ。まず「なぜお一人で足りるのか」。後の世の学僧たちは、その理由を、4つに整理しています。
その一
ひとつの世界は、一人の仏さまで、すべての人をみちびくのに足りています。だから二人目はいりません。
その二
仏になる前の修行のとき、「ほかに導き手のいない世界をえらんで、私がよりどころになろう」と願を立てられたからです。だから、すでに仏さまのいる世界に、重ねて出ることはありません。
その三
お一人だからこそ、人は「めったにお会いできない、尊い方だ」と、深く敬う心を起こします。
その四
出会いがまれだと知ればこそ、人は「いま、教えに励もう」と思い立ちます。
どの理由も、もとはひとつの心です。一人の仏さまで、すべてが満ち足りている。だからこそ、お一人なのです。では、もしもう一人、仏になれるほどの方がいたら。その方は、この世界で二人目になるのではありません。まだ導き手のいない別の世界へ、人々を救いに向かわれます。だから、どの世界も、ちゃんとお一人の仏さまに見守られるのです。
ここからは、もっと深く知りたい方のために、もとの経典の言葉を、ひとつずつ添えていきます。この教えは、パーリ語・梵語(サンスクリット)・漢文・チベット語という、4つの言葉の経典で、言いまわしまでぴたりと重なって確かめられます。まずは、いちばん古い層から。
aṭṭhānam etaṃ anavakāso yaṃ ekissā lokadhātuyā dve arahanto sammāsambuddhā apubbaṃ acarimaṃ uppajjeyyuṃ, netaṃ ṭhānaṃ vijjati.
これは、道理に非ず、余地もないことである。すなわち、ひとつの世界に、二人の阿羅漢・正等覚者(=仏さま)が、前後せず同時に現れる、ということ。そのような道理は、存在しない。
パーリ語は、お釈迦さまの教えをもっとも古いかたちで伝える言葉です。「処に非ず、余地なし」という、ありえないことを示す決まり文句で説かれます。
南に伝わったパーリ語『増支部』一集/『分別論』。仏の十の力の第一として説かれます。
阿難、若世中有二轉輪王並治者、終無是處。阿難、若世中有二如來者、終無是處。
アーナンダよ、もしひとつの世のなかに、二人の転輪王(=理想の王)が並んで治めることがあれば、それは終に、道理に合わない。アーナンダよ、もしひとつの世のなかに、二人の如来(=仏さま)がいることがあれば、それも終に、道理に合わない。
仏さまと、世を治める王さまとを、まったく同じ理屈で「二人は並ばない」と並べています。これが、この教えのもともとの形です。
瞿曇僧伽提婆訳『中阿含経』「多界経」(大正蔵 No.26)。
我從佛聞、親從佛受、欲使一時二佛出世、無有是處。
私は、仏さまから直に聞き、じかに受けたまわりました。同じときに、二人の仏さまが世にお出ましになる、ということは、ありえないのです。
天の神々が「二人、いや八人の仏さまが出れば、もっとよいのに」と願ったのに対し、帝釈天が、仏さまから聞いた言葉として、こう答えます。法蔵部に伝わった経のことばです。
仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』「典尊経」(大正蔵 No.1)。
Kena kāraṇena dve tathāgatā ekakkhaṇe nuppajjanti? Ayaṃ, mahārāja, dasasahassī lokadhātu ekabuddhadhāraṇī, ekasseva tathāgatassa guṇaṃ dhāreti. Yadi dutiyo buddho uppajjeyya, nāyaṃ dasasahassī lokadhātu dhāreyya, caleyya kampeyya nameyya onameyya vinameyya vikireyya vidhameyya viddhaṃseyya, na ṭhānamupagaccheyya.
〔ミリンダ王が問う〕「どういう理由で、二人の如来(=仏さま)は、同じ時にはお出ましにならないのですか」。〔長老ナーガセーナが答える〕「大王よ、この1万世界は、ただお一人の仏さまだけを保つもの。お一人の如来の徳だけを保ちます。もし二人目の仏さまが現れたなら、この1万世界はもう保ちきれず、ゆれ、ふるえ、かたむき、たわみ、くずれ、ばらばらに砕け散って、立ちゆかないでしょう」。
ギリシア人の王ミリンダの問いに、長老ナーガセーナが答えます。その答えが「世界の大きさ」をそのまま口にしているのが、目を引きます。ここでいう1つの世界とは、須弥山世界を1万あつめた『1万世界』のこと。ちょうどその大きさが、お一人の仏さまの徳でいっぱいになる、と説きます。仏さまの世界の大きさには尺度がいくつかあり、お生まれになる範囲をこの1万世界、威光の及ぶ範囲をさらに大きく三千大千世界と、説き分けることもあります。
『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハ)』、二人の仏さまが同時に現れない理由を問う章。紀元前後の、ギリシア人の王と長老ナーガセーナの問答集です。
如一中千世界、爾所中千千世界、是為三千大千世界。如是世界周匝成敗、眾生所居名一佛剎。
1つの中千世界、その中千世界を千あつめたものが、三千大千世界である。このような世界が、ぐるりと、成り立っては滅びる。その、生きとし生けるものの住むところを、一仏刹(=一人の仏さまの国土)と名づける。
一人の仏さまの国土とは、けっして小さなものではありません。須弥山世界を10億あつめた、三千大千世界の全体。これが「1つの世界」の大きさで、部派も大乗も、ここは同じです。世界が小さいから仏さまがお一人なのではなく、これほど大きな世界が、まるごとお一人の仏さまの国土なのです。
仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』「世記経」(大正蔵 No.1)。
つづいて、流派ごとの論書です。同じ教えが、それぞれの言葉で理由づけられ、やがて「世界の広さ」をめぐって、上座部・説一切有部と、大乗とが分かれていきます。
まず、北で栄えた流派が、「なぜ二人の仏さまは同時に出ないのか」を、理由を挙げて整理しました。
又問、何因二佛如來・應供・正等正覺不同時出。答、菩薩往昔修因其事廣大、謂於長時、唯一師教・一種修習、作諸善法、隨其所作同一解脱・唯一所尊・唯一大智。作諸善業、長養成熟、於一時中無二果報現前所起。此復云何。答、二難並故。以是因故、於一時中二佛如來・應供・正等正覺不同出世。
また問う。どういう因によって、二人の仏さま(如来・応供・正等正覚)は、同時に出ないのか。答える。仏になる方(菩薩)は、はるかな過去から因を積むこと広大で、長いあいだ、ただ一人の師の教え、一すじの修行によって、もろもろの善い行いをなし、そのなすところはすべて、同一のさとり、唯一のとうとい方、唯一の大いなる智慧に向かう。そうして善い行いを積み、長く育て、熟させても、ひとつの時に、2つの結果(成仏)が同時に現れて起こることはない。これはどういうことか。答える。2つの、この上なく難しいこと(成仏)が、同時に並ぶことはないからである。この因によって、ひとつの時に、二人の仏さまは同時に出世しないのである。
「なぜ二人の仏さまは同時に出ないのか」を、理由を挙げて整理した、いちばん元の論書です。仏になるための、はるかな修行の積み重ねが、同時に2つ実ることはない、と説きます。
『阿毘達磨施設論』因施設門(大正蔵 No.1538)。
若爾、何故一世界中無二如來俱時出現。以無用故、謂一界中一佛、足能饒益一切。又願力故、謂諸如來爲菩薩時先發誓願、願我當在無救無依盲闇界中成等正覺、利益安樂一切有情、爲救爲依爲眼爲導。又令敬重故、謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故、謂令如是知一切智尊甚爲難遇、彼所立教應速修行、勿般涅槃或往餘處、便令我等無救無依。故一界中無二佛現。
では、なぜひとつの世界に、二人の仏さまが同時に出現しないのか。1つに、無用だからである。ひとつの世界に一人の仏さまがあれば、すべての人をうるおすのに足りる。2つに、願いの力による。仏さまがたは、まだ菩薩であったとき、まず誓いを立てられた。「救いも依りどころもない、暗く盲いた世界で、私がさとりを成し、すべての生きとし生けるものを利益し安らかにし、その救い・依りどころ・眼・導き手となろう」と。3つに、深く敬わせるためである。ひとつの世界にただ一人の仏さまがあればこそ、人は深く敬う。4つに、速やかに励ませるためである。「すべてを知る尊い方には、まことに出会いがたい。その教えは速やかに修行すべきだ。仏さまが亡くなられたり、ほかへ行かれたりすれば、私たちは救いも依りどころも失う」と、こう知らせるためである。ゆえに、ひとつの世界に二人の仏さまは現れない。
本文で挙げた「4つの理由(無用・願力・敬重・速行)」の、もとになった文です。どれも「一人で満ち足りている」という、ひとつの心から説かれています。
世親造・玄奘訳『阿毘達磨倶舎論』世間品(大正蔵 No.1558)。
sangs rgyas gnyis snga phyi med par 'jig rten du 'byung ba ni gnas ma yin zhing go skabs med de.
二人の仏さまが、前後なく(=同時に)世に現れること。これは、処に非ず、その余地もない。
同じ『倶舎論』のチベット語訳です。『倶舎論』は、日本でもチベットでも、僧侶が学びの土台とする基本の論書。この教えが、東アジアからチベットまで、仏教を学ぶ人の基礎に、共通して置かれてきたことが分かります。
チベット語訳『倶舎論』釈(デルゲ版テンギュル Toh 4090)。
Ko hetuḥ kaḥ pratyayaḥ yaṃ ekasmiṃ kṣetre dvau samyaksaṃbuddhau nopapadyanti? Yat kāryaṃ naranāgena buddhakarma suduḥkaraṃ, tat sarvaṃ paripūreti eṣā buddhāna dharmatā. Asamartho yadi siyād buddhadharmeṣu cakṣumāṃ, tato duve mahātmānau utpadyete tathāgatau. Taṃ cāsamarthasadbhāvaṃ varjayanti maharṣiṇāṃ, tasmāt duve na jāyante ekakṣetre nararṣabhau.
〔大迦葉が問う〕「仏子よ、どういう因、どういう縁によって、ひとつの国土に、二人の正等覚者(=仏さま)が生じないのですか」。〔大迦旃延が偈で答える〕「人のなかの龍(=仏さま)がなしとげるべき、この上なく難しい仏の御業。それを、ことごとく満たし果たされる。これが仏さまの本性です。もし、眼ある方(=仏さま)に、仏の徳として足りないところがあるのなら、そのときこそ、二人の偉い如来がお出ましになるでしょう。けれども、大いなる聖者に、その足りなさはありません。だからこそ、二人の人中の雄(=仏さま)が、ひとつの国土に生まれることはないのです」。
大迦葉の問いに、大迦旃延が偈で答えます。理由はこうです。仏さまは、なすべき仏の御業を、お一人ですべて果たしてしまわれる。だから、足りないところを補うための二人目は要りません。二人目が要るのは、最初の仏さまに足りなさがあるときだけ。けれども、仏さまにその足りなさはない。ゆえに、ひとつの国土に二人は生まれない、と説きます。説一切有部とはまた別の流派(大衆部系)の律にも、同じ教えが伝わっていることが分かります。
梵語『大事(マハーヴァストゥ)』(大衆部・説出世部(だいしゅぶ・せっしゅっせぶ)の律蔵、Senart 校訂本 第一巻)。
Sabbā disā buddhā tiṭṭhantīti? Āmantā. Puratthimāya disāya buddho tiṭṭhatīti? Na hevaṃ vattabbe …pe… puratthimāya disāya buddho tiṭṭhatīti? Āmantā. Kinnāmo so bhagavā, kiṃjacco, kiṃgotto, kinnāmā tassa bhagavato mātāpitaro, kinnāmaṃ tassa bhagavato sāvakayugaṃ, konāmo tassa bhagavato upaṭṭhāko, kīdisaṃ cīvaraṃ dhāreti, kīdisaṃ pattaṃ dhāreti, katarasmiṃ gāme vā nigame vā nagare vā raṭṭhe vā janapade vāti? Na hevaṃ vattabbe.
〔問い手(上座部)〕「あらゆる方角の世界に、仏さまがおられるのですね?」〔答え手(大衆部)〕「はい、おられます」。〔問い手〕「では、東の方角に、仏さまがおられますか?」〔答え手〕「いえ、そうとは言いきれません」。…〔南・西・北なども、同じ問答がくり返される〕…〔問い手〕「もう一度うかがいます。東の方角に、仏さまはおられますか?」〔答え手〕「はい、おられます」。〔問い手〕「では、その仏さまのお名前は? ご生まれは? ご一族は? 父母のお名前は? 二人の高弟は? お付きの侍者は? どんな衣、どんな鉢を? どの村、町、都、国、地方に?」〔答え手〕「……いえ、何ひとつ、お答えできません」。
世界を「1つだけ」と見る上座部が、「いま、あらゆる方角の世界に仏さまがおられる」と説く大衆部を、問いつめる場面です。上座部はこう迫ります。「あちこちに仏がおられるというなら、その一人を、お名前でも、ご両親でも、お住まいでも、何か1つ挙げてみなさい」。すると相手は、何ひとつ答えられない。名も素姓も居どころも示せないなら、その「おられる」は、ことばだけ。こうして、ほかの世界の仏さまを認める説を、しりぞけます。世界を「1つだけ」と見る側の、もっとも厳しい立場です。
パーリ『論事』「一切方論」。
佛說一三千大千世界中無一時二佛出、非謂十方世界無現在佛也。
仏さまが説かれたのは、「ひとつの三千大千世界(=ひとつの大きな世界)の中に、同じ時に二人の仏さまは出ない」ということであって、十方(=あらゆる方角)の世界に、いま仏さまがおられない、という意味ではない。
「1つだけ」と見る側とちょうど反対に、いま、ほかの世界に仏さまがおられることを、はっきり認めます。阿弥陀さまやお薬師さまが、いま別の世界におられる、という考え方の、よりどころです。
龍樹造・鳩摩羅什訳『大智度論』(大正蔵 No.1509)。
決定無有一佛土中、有二如來俱時出世。
ひとつの仏さまの世界の中に、二人の仏さまが同時に出世することは、決してない。
この論は、「ほかの世界では、たくさんの修行者が同時に仏になる」ことを前提としたうえで、ひとつの世界にはお一人、と説きます。同じ決まりを、無数の世界の側から読んでいます。
弥勒説・玄奘訳『瑜伽師地論』(大正蔵 No.1579)。
見くらべると、決まりは、どれも同じです。「1つの世界に、仏さまはお一人」。しかも、その「1つの世界」の大きさも、共通しています。部派も大乗も、一人の仏さまの国土を、須弥山世界を10億あつめた三千大千世界=一仏刹=娑婆世界=この私たちの世界、とします。ちがうのは、ただ一点。その世界を「この1つだけ」と見るか、「無数にある、そのうちの1つ」と見るか。世界を1つと見れば、いまの仏さまはお釈迦さまお一人。無数と見れば、十方の無数の世界に、いま無数の仏さまがおられる。阿弥陀さまやお薬師さまを仰ぐ私たちは、後の、大乗の道の上にいます。
最後に、大乗の、ひろがりゆく仏さまのとらえ方から、毘盧遮那仏・大日如来へとつながる、原典の言葉です。
一一毛孔中、一切剎塵諸佛坐、菩薩眾會共圍遶、演説普賢之勝行。
(毘盧遮那仏の)ひとつひとつの毛あなの中に、数えきれない世界の塵の数ほどの仏さまが坐し、菩薩がたの集まりがともに取り囲んで、普賢のすぐれた行いを説いておられる。
ひとつの小さなところに、すべての世界がそっくりおさまる。1つがそのまま全体である、という華厳の世界観です。毘盧遮那仏は、ひとつの世界の一人ではなく、あらゆる世界をつらぬく仏さまとして描かれます。
『大方広仏華厳経』(大正蔵 No.279)。
法王唯一法、一切無礙人、一道出生死。一切諸佛身、唯是一法身、一心一智慧、力無畏亦然。(中略)一切諸佛剎、莊嚴悉圓滿、隨眾生行異、如是見不同。
法王(=仏さま)は、ただ1つの法。いっさいの、さわりなき方(仏さま)は、1つの道によって、生き死にを出る。あらゆる仏のお身体は、ただ1つの法身。1つの心、1つの智慧、十力も無畏も、また同じ。〔中略〕あらゆる仏の国土は、荘厳がことごとく円かに満ちている。ただ、生きものの行いがちがうのに応じて、こうして、ちがって見えるだけなのだ。
華厳経が立てる問いは、この記事の問いとそっくりです。仏さまは1つの道でさとるのに、なぜ、世界も寿命も説法もちがう、たくさんの仏の国土が見えるのか。答えは、「あらゆる仏のお身体は、ただ1つの法身」。仏さまは、もとは1つの法身で、たくさんに見えるのは、それを受けとる私たちの側がちがうから、と説きます。一と多が、一句で結ばれます。
唐・実叉難陀訳『大方広仏華厳経(八十華厳)』「菩薩問明品」(大正蔵 No.279)。同じ偈は六十華厳(No.278)にもある。
盧舍那佛神力故、一切剎中轉法輪(中略)法身堅固不可壞、充滿一切諸法界、普能示現諸色身、隨應化導諸群生。
盧舍那仏の神力によって、いっさいの国土の中で、法輪が転じられる。〔中略〕法身は、堅固で、こわれることなく、いっさいの法界に満ちている。あまねく、さまざまなお姿(色身)を示しあらわして、衆生を、それぞれに応じて導く。
旧訳の『華厳経』は、毘盧遮那を「盧舍那(ビルシャナ)」と呼びます。その法身は、こわれることなく、あらゆる世界・あらゆる法界に満ちる。そして、その1つの法身が、あまねく「さまざまなお姿」を示して、めいめいの衆生を導く、と説きます。1つの法身と、無数のお姿とが、ここで1つに結ばれます。
東晋・仏馱跋陀羅訳『大方広仏華厳経(六十華厳)』「盧舍那仏品」(大正蔵 No.278)。
我今盧舍那、方坐蓮花臺、周匝千花上、復現千釋迦。一花百億國、一國一釋迦、各坐菩提樹、一時成佛道。如是千百億、盧舍那本身。
私は、いま盧舍那(=毘盧遮那)。大きな蓮の花の台に坐している。台のまわりには千の花びらがあり、その上に千の釈迦があらわれる。さらに細かく見れば、花びら一枚に百億の国があり、その一国ごとに、一人の釈迦。千の花びら かける 百億の国で、合わせて千百億の釈迦が、みな菩提樹の下で、いちどきに仏となる。この千百億の釈迦は、すべて盧舍那 ただ一仏の、お身体そのもの(本身)である。
「一国に一釈迦」。1つの世界にお一人、という決まりが、ここにそのまま出ています。そして、その数えきれない釈迦は、みな盧舍那お一人のお身体。無数の世界を一枚の蓮の花として束ねた、その主が盧舍那です。一仏一国土と、すべてをつらぬく一仏とが、1つの絵で結ばれます。
後秦・鳩摩羅什訳『梵網経』「盧舍那仏説菩薩心地戒品」(大正蔵 No.1484)。
我實成佛已來、無量無邊百千萬億那由他劫。
私が、まことに仏となってから、すでに、量りきれず果てしない、百千万億・那由他という、長い長い時が過ぎている。
お釈迦さまは、この世で初めて仏になったように見えて、はるかな昔から、ずっと仏でありつづけている、と説きます(久遠実成)。歴史のお姿をこえた、時をつらぬく仏さまの姿が、ここにあらわれます。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』「如来寿量品」(大正蔵 No.262)。
釋迦牟尼名毘盧遮那、遍一切處、其佛住處名常寂光。
釈迦牟尼を、毘盧遮那と名づける。あらゆる処に、あまねく満ちておられる。その仏さまのおられる処を、常寂光(=つねに静かな光の国土)と名づける。
『観普賢経』は、『法華経』の締めくくりの経(結経)として読まれてきたお経です。『法華経』の最後の章で、普賢菩薩が、教えを保つ人を守ろうと誓い、白い象に乗って現れます。その続きとして、普賢菩薩を心に観て、罪を懺悔する行を説くのが、この経です。そのなかで、私たちの世界においでのお釈迦さまは、そのまま、あらゆる処に満ちる毘盧遮那である、と説かれます。1つの世界の仏さまと、すべてをつらぬく仏さまとは、別ではありません。歴史のお姿の奥に、法界に満ちる仏さまのお身体がある、ということです。
宋・曇無蜜多訳『仏説観普賢菩薩行法経』(大正蔵 No.277)。
是初佛身、隨眾生意有多種故現種種相、是故說多;是第二佛身、弟子一意故現一相、是故說一;是第三佛身、過一切種相、非執相境界、是故說名不一不二。(中略)離於法身、無有別佛。
第一の仏身(化身)は、衆生の心に応じて、多くの相をあらわすので、「多い」と説く。第二の仏身(応身)は、弟子の1つの心に応じて、1つの相をあらわすので、「1つ」と説く。第三の仏身(法身)は、いっさいの相をこえ、相にとらわれる境地ではないので、「一でも二でもない」と説く。〔中略〕法身を離れて、別の仏はない。
経みずからが、仏さまのお身体を、数で説き分けます。私たちの前にお姿をとる化身は、衆生に応じて「多い」。法身は、数をこえて「一でも二でもない」。そして、「法身を離れて、別の仏はない」。お寺のたくさんの仏さまも、もとは1つの法身のあらわれだ、という見方が、経の言葉そのものに出ています。
梁・真諦訳「三身分別品」。隋・宝貴編『合部金光明経』(大正蔵 No.664)所収。義浄訳『金光明最勝王経』(No.665)「分別三身品」にも同説がある。
一切身業、一切語業、一切意業、一切處、一切時、於有情界宣説真言道句法。
(大日如来は)あらゆる身のはたらき、あらゆる言葉のはたらき、あらゆる心のはたらきをもって、あらゆる処で、あらゆる時に、有情界(=生きとし生けるものの世界)に向けて、真言の道を説きたまう。
大日如来は、ある時・ある場所に一度だけ現れる仏さまではありません。あらゆる処で、あらゆる時に、すべての生きものへ、たえず真言の教えを説きつづけておられる。「1つの世界にお一人」という決まりの外にいるのではなく、その決まりを、あらゆる世界の全体にまで広げたときの、その一仏(法界そのものをお身体とする仏さま)です。
善無畏訳『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』。本文は『大日経疏』巻第一(大正蔵 No.1796)に引く経文による。
自性・受用佛、自受法樂の故に、自眷屬と與に各おの三密門を説く。之を密教と謂ふ。
自性身・受用身(あらゆる世界に満ちる仏さま)が、自ら法の楽しみを受けるそのままに、その仲間とともに、それぞれ三密(身と口と心の門)を説く。これを密教という。
ふつう、法身(=あらゆる世界に満ちる仏さま)は、形もなく語りもしない、とされます。お大師さまは、それに対して、法身である大日如来こそが、自ら教えを説いておられる、と立てます。これが密教の、いちばんの特色です。
弘法大師空海『弁顕密二教論』(大正蔵 No.2427)。
薄伽梵は即ち毘盧遮那の本地法身なり。次に如來と云ふは、是れ佛の加持身なり。其の住する所、佛の受用身と名づく。
(経にいう)薄伽梵(=世尊・仏さま)とは、すなわち毘盧遮那の、本地法身である。次に「如来」というのは、これは仏さまの加持身(=はたらきとして現れる身)である。その住しておられる所を、仏さまの受用身と名づける。
毘盧遮那(=大日如来)の、本地法身を中心に、仏さまをいくつかの身でとらえます。真言宗の、根本の注釈書です。
善無畏説・一行記『大毘盧遮那成仏経疏(大日経疏)』巻第一(大正蔵 No.1796)。
上從大日尊、下至六道衆生、相住各各威儀、顯種種色相、並是大日尊之差別智印也、非更他身。故經文云、我即法界、我即金剛身、我即天龍八部等。如是法身、互相渉入、猶如絹布絲縷、竪横相結、不散不亂、是則經之義也。
上は大日尊から、下は六道の衆生に至るまで、それぞれの相に住し、さまざまな色相(=姿かたち)をあらわす。それはみな、大日尊の差別智印(=大日が智慧によって示し分けたしるし)であって、別の身ではない。だから経文に、「我は即ち法界、我は即ち金剛身、我は即ち天龍八部」などと説かれる。このように、法身はたがいに入りあい、ちょうど絹の縦糸と横糸が結びあって、ばらけず、乱れないようなものだ。これが、経の心である。
お大師さまの言葉です。大日如来から、地獄・餓鬼から人・天まで、ありとあらゆる姿は、すべて大日如来お一人が、智慧によって示し分けたお姿であって、「別の身ではない(非更他身)」。だから経は、大日如来が自ら「我は即ち法界」と名のる、と説きます。たくさんの仏さまも、私たち衆生も、もとは一仏 大日如来の、1つの法身のあらわれ。ここまでたどってきた道の、行きつく先です。
弘法大師空海『大日経開題』(大正蔵 No.2211)。
六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼、各おの離れず。三密加持すれば速疾に顕る。重重帝網なるを即身と名づく。
この世界をかたちづくる6つの要素(六大)は、さまたげなく溶けあい、いつもひとつに結びついている(瑜伽)。仏さまの世界をあらわす四種の曼荼羅も、たがいに離れない。身と口と心の3つのはたらき(三密)が仏さまと響きあえば(加持)、さとりは速やかに現れる。網の目がたがいに映りあう(重重帝網)ように、すべてが1つに通じている。これを即身(このままの身で仏になること)と名づける。
仏さまは、はるか遠くにおられる別の存在ではない。私たちは、もとから大日如来とひとつにつながっていて、三密の行(手を合わせ、真言をとなえ、心を向ける)によって、この身のままで仏さまのいのちに触れていく、と説きます。
弘法大師空海『即身成仏義』(大正蔵 No.2428)。
華厳の毘盧遮那仏、法華の永遠の仏から、密教の大日如来へ。そして即身成仏へ。「仏さまは何人か」という古い問いは、こうして「私の心の奥に、どのように仏さまを見いだすか」という、お一人おひとりの歩みへと、形を変えていきます。
本記事は、高野山真言宗 平等寺 住職 谷口真梁(たにぐち しんりょう)が、次の原典と資料にもとづいて記しました。漢訳経論は大正新脩大藏經(CBETA。空海の撰述は SAT 大正蔵テキストデータベース)、パーリ語は南伝の原典(PTS本)、梵語は校訂本、チベット訳はデルゲ版テンギュルの本文から確認しています。「No.」は大正新脩大藏經の経・論番号、「Toh」はデルゲ版テンギュルの東北大学目録番号です。
仏さまの数と世界のひろがり、そして平等寺の祈りを、さらに知るための記事です。