意味
意味を知る
人の善い行いを、ねたまずに自分のこととして喜ぶ。そのはたらきを随喜といいます。
随喜について
だれかの祈りや善い行いに、ねたまず、その人と一緒に喜ぶ。 自分が行った善でなくても、そこに心を寄せて喜ぶ一念が、そのまま自分の修行となります。
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意味
意味を知る
人の善い行いを、ねたまずに自分のこととして喜ぶ。そのはたらきを随喜といいます。
功徳
功徳を知る
随喜する人にも、施した人と等しい福徳が訪れます。その善はさらに、伝わるほど広がっていくと仏典は説きます。
実践
実践する
身近な人の善い行い、だれかの祈りや親切。暮らしのなかで心を向けてみる、その一念から随喜は始まります。
オンライン
法会に随喜する
平等寺オンラインからそのまま、法会に随喜して参座できます。開催中の法会があれば、ご覧ください。
意味
だれかの祈りや布施、努力を目にして、「よかったね」「ありがたいね」とその人に寄り添って喜ぶ。ねたまず、一緒に喜ぶ。その心を仏教では随喜といいます。
見人行善,心喜無妒。
随喜は、だれかの善い行いを見たときに、その人へ心を向けて「よかったね」「ありがたいね」と一緒によろこぶことです。自分がした善でなくても、その善をねたまず、そばで共に喜ぶ。そこに随喜の出発点があります。
語源をたどると、パーリ語・サンスクリット語の anumodanā は、接頭辞 anu-(随って)と動詞語根 √mud(喜ぶ)から成り、「相手に寄りそってよろこぶ」という意味になります。自分が主役になる喜びではなく、だれかの善い行いに心を重ねて起こる喜びだと受け取ると、意味がつかみやすくなります。
古くから南伝上座部でも、だれかの善い行いを目にすると「sādhu sādhu(サードゥ、サードゥ)」と声を合わせてきました。日本語の「よかったね」「ありがたいね」と同じく、相手の善にそっと心を添える一声です。随喜には、そうした素朴な呼びかけが古くから含まれていました。
そして随喜は、「よかったね」と一緒に喜ぶだけで終わるものでもありません。その善にふれて心が動き、自分もまた善い行いへ向き直す。そこまでを含めて、随喜といいます。相手の善を共に喜ぶことが、めぐりめぐって自分の心を善のほうへ運んでいく。それが随喜のはたらきです。
功徳
仏典は、人の善を喜ぶ心が、元の善根を損なうことなく功徳を広げていくと説きます。ここに随喜の不思議さがあります。
隨喜功德無量無數。
『法華経』「随喜功徳品」は、教えを聞いて喜んだ人がその喜びを次の人へ伝え、五十人目に至ってもなお計り知れない功徳があると語ります。喜びは伝わるほど弱くなるのではなく、むしろ広がるほど深まるのです。
『金光明最勝王経』は「供養の功徳には数と量があるが、随喜の功徳は無量無数である」と説きます。物の供養が持てる量に限界をもつのに対し、心の随喜には際限がありません。
鎌倉時代の浄土宗第三祖・良忠上人が、『観経疏伝通記』のなかで引く「買香の譬え」も同じ理を示します。香を売る人、買う人、そばにいる人が等しく香りに包まれるように、善を行う人、支える人、随喜する人もまた、ともに善の香りに与るのです。
実践
仏典のことばを学んだら、あとは暮らしのなかで実際に心を向けてみること。身近な人の善い行い、だれかの祈りや親切。その一つひとつが、随喜の出発点になります。
「よかったね」「ありがたいね」
随喜は、大きな修行として構えなくてかまいません。家族が人に親切にしているのを見て「よかったね」と一緒に喜ぶ。ニュースで誰かの善い行いを目にして、そっと「ありがたいね」と心に重ねる。そうした日々のふるまいの積み重ねが、そのまま随喜になります。
仏典の教えにならえば、布施できる財がなくても、祈りの場に立ち会えなくても、相手の善に心を向ける一念があれば、そこに随喜の福徳が生まれています。だから、はじめて参座する方も、まずは今日の善を一つ思い起こして、そっと心を添えてみる。それだけでもう、随喜は始まっています。
七〜八世紀のインドの僧・論師である寂天(Śāntideva)は、『入菩薩行論』を著し、後代には菩薩のような実践を体現した人として深く敬われました。彼はそのなかで、随喜には三つの表れがあると示しました。意(こころ)で清らかなよろこびを起こし、身(からだ)でそのよろこびを感じ受けとめ、語(ことば)で「善くなされた、よいなあ」と返す。この三つがそろうと、随喜は深いかたちになります。どれか一つからでも始められます。
南伝の仏教圏には、いまも「sādhu, sādhu, sādhu(善いかな、善いかな、善いかな)」と三唱する慣行があります。だれかの善い行いや法話、発願を目にしたとき、その場にいる人々が一緒にこのことばで受けとめる。二千五百年前から続いてきた作法は、日本語でいえば「ありがたいね」「よかったね」のひとことに近いもので、家族や友のあいだで交わす短い言葉も、この古い流れの延長にあります。
チベット仏教の日々の勤行では、『普賢行願讃』の随喜支がいまも唱えられます。「十方の一切の勝者と仏の御子たち、独覚たち、有学・無学、あらゆる衆生の功徳を、私は随喜して善逝に廻向する」。身近な人から諸仏まで、あらゆる善根を一息に受けとめていく広い構えが、このたった一偈にこめられています。言語や地域を越えて、随喜は勤行の中核として受け継がれてきました。
律蔵に残る功徳衣 (カティナ) の儀礼には、「随喜し、随喜しつつ声になり、声になりつつ他の者へ伝えていく」という連なりが描かれます。随喜は一人の心の動きにとどまらず、ことばになって広がり、受けとった人をまた別のだれかへ向かわせていく。日々の暮らしのなかで人の善を「ありがたいね」と誰かに伝えていく行為も、そのまま古い作法の延長線上にあります。
習慣として続けていくうちに、自分の心のほうも少しずつ変わっていきます。うらやましさやねたみが起こりにくくなり、人の善を素直に受けとめられるようになる。随喜は、相手のためであると同時に、自分の心を整える日々の行でもあります。
平等寺オンライン
オンラインのしくみは、仏教をかたちばかりのものにするためにあるのではありません。離れた場所からでも、法会の善根に心を向け続けられるようにするためのものです。
受付開始を待つ
法会の時間になると、住職が随喜の受付を開きます。画面に受付中の法会が現れたら、そこから参座できます。
善根に心を重ねる
読経や祈り、供養、そこに集う真心。その場に起きている善いはたらきを、ねたまず、比べず、素直に喜びます。
「随喜する」を押して記録に残す
ボタンひとつで参座の縁がかたちに残ります。名前や公開範囲は、ご自分のペースで整えてかまいません。
誤解しやすい点
「うれしい気分」は、随喜のはじまりです
人の善を見てねたまず、自分の心も善いほうへ向きなおす。そこまで含めて、随喜といいます。「よかったね」と感じる気分は、その入口にあるものです。
数字やポイントは、随喜の日々のしるしです
TOKや履歴は、参座の縁をかたちに残すための目じるしです。中心にあるのは、そのたびの心の向きです。
随喜は、誰にでもひらかれた行です
布施する財がなくても、人の布施や祈りを心から喜べれば、その福徳はそのまま自分のもとに訪れます。ちいさな一念から始まる行です。
補足
ここから先は、随喜が真言宗のなかでどう位置づけられ、日々の勤行のなかでどのように受け継がれてきたかを、経論のことばとともにたどります。随喜の本質は上の 1〜4 でお伝えしています。さらに知りたい方のための参考としてご覧ください。
補足・真言宗
真言宗では、随喜を「よい気持ち」のうちにとどめません。自分の行いを仏さまの行いへと重ねていく。密教における随喜は、そうした修行として受けとめられてきました。
我今一切盡隨喜。
『大日経』の「普通真言蔵品」には、「随喜方便」という作法が説かれています。十方の仏や菩薩、衆生が積んできたあらゆる善根を挙げ、最後に「我、今、ことごとく随喜す」と結ぶ偈です。真言宗では『胎蔵界礼讃』の九方便の第六として、いまも勤行のなかで唱えられてきました。ただ心のうちにとどめるのではなく、自分の行いを仏さまの行いへと重ねていく。密教の随喜には、そうした身体性があります。
『大日経疏』は、曼荼羅を前にして手を合わせ、頭を下げるだけの「一念の随喜」であっても、菩提を成ずることが必ず定まると述べます。大きな修行を積まなくとも、仏の世界を見て、触れ、受けとめる一瞬の心。それが仏の境地へとまっすぐつながる。随喜の一念が、それほど深く受けとめられてきました。
『釈摩訶衍論』は、随喜を「信」を構成する十の意義のひとつに数えます。「他の勝れた行に同心を起こす」。人の優れた行いに、自分の心を重ねること。それがそのまま大乗の信のかたちになると説かれます。真言宗の勤行で、懺悔・勧請・随喜・回向が日々の作法として読み継がれてきた背景にも、この信の理解があります。
補足・伝統
人の善を喜べない心を、仏教では嫉妬障と呼びます。随喜は、そのざわめきをほどき、心を善いほうへ向き直すための日々の行として、古くから位置づけられてきました。
隨喜滅嫉妬障。
『華厳経』の「普賢行願品」には、菩薩が日ごと立てるべき十の大願が説かれています。真言宗の勤行でも唱えられてきた一節です。十大願の第四は「懺悔業障」、自分のあやまちを懺悔すること。その次の第五に「随喜功徳」、人の善を喜ぶことが置かれます。自分を省みた呼吸のまま、人の善を受けとめる。この並びが、随喜を日々の行として位置づけてきたのです。
『金剛界礼讃』には、「五悔」、つまり懺悔・随喜・勧請・回向・発願の作法が受け継がれています。真言宗の勤行でも唱えられてきた礼讃です。『金剛頂蓮華部心念誦儀軌』は、そのなかの随喜について「深く歓喜の心を発し、諸仏・菩薩の行願、縁覚・声聞および有情の集めた善根を、ことごとく随喜せよ」と唱えさせます。懺悔のすぐあとに随喜が置かれる。心にざわめきが生じたとき、それを喜びへ置き換える日々の作法として、随喜はここに脈々と生きてきました。
法然上人は『和語燈録』で、凡夫がつくった功徳も、仏菩薩が授ける功徳も、「随喜すればわが功徳となる」と説きました。他者の善を心から喜ぶことは、その善を自分の歩みとして引き受け直すはたらきでもあります。うらやましさを抱えたまま眺めるのではなく、人の善を自分の修行のなかへ迎え入れていく。宗派を問わず、随喜は日々の行としてこの道を示してきたのです。